短編作「月光」

月光 太陽が海に沈みかける頃、断崖に建つウルワツ寺院の周りは賑わいを増していた。寺院の数百メートル先にある競技場のような円形の広場には、既に数百人の観光客が、中心を囲むように座っている。ステージの中央の灯籠の灯が風に揺れ、香木の香りが周りを…

短編作「サイレント」

黒光りするアップライトピアノの鍵盤の蓋は閉じたまま。そこに肘を付き、視線を斜め下に落とす女性が目の前にいる。ピアノの天屋根には、透明なグラスに挿されている赤いアネモネが一輪。次の作品展に向けて、僕は一人のモデルを雇い、制作に打ち込んでいる…

短編作「築地市場」

築地市場 大将がキハダマグロを出刃包丁で豪快に切り開く。マグロの血や小骨が私の顔に飛びかかるけど、もう慣れた。私は大将の隣りで業務用の大きなボウルに入った一升分の米を必死に研ぐ。全身の力をかけながら、わしっわしっとリズムを刻みながら米を押し…

短編作「Roman Holiday」

ローマ行きの特急列車に乗り、車窓から田園風景をあてもなく眺める。僕は、小麦色の肌と引き締まった足首を持つアリーチェの姿を何度も思い浮かべながら、落ち着かない気持ちでスプマンテを口にする。二週間前、僕が働いている靴工房に一人の女性が訪れた。…

短編作「城を築く」

城を築く 新緑が揺れ、心地よい風を運ぶ5月の昼下がり。荘厳な御堂を後ろに将棋盤を叩く音が響き渡る。対戦者の葛城五段は、「動く」ことを柱とした戦術で攻めてくる。僕の一挙手に対し、攻め・守りのあらゆる対策を瞬時に考え、相手に戦法を読み取らせない…

エッセイ「ピアノコンサート」

Prayer 天から降り注ぐような真っ直ぐな光を浴びて、演奏者は最初の一音を響かせた。その瞬間、何百人もの聴衆の呼吸は収束し、ステージ上のグランドピアノと、タキシード姿の演奏者を見つめた。彼が演奏するベートーヴェンのピアノソナタは囁き声のような繊…

短編作「River Side」

River Side 草のすえた臭いが部屋の中を充満していて、僕はふわふわとした気分になる。二日前に買った、しなびたフライドポテトを口の中に入れると塩気が全く感じられなくて、サルサソースを沢山ふりかける。口の中がピリピリして美味しい。テレビの上に置か…

短編作「rainning」

raining 雨に濡れる窓を、温室内から眺める。この空間の植物たちは、外の気候に影響されること無く、一定の温度に保たれた空間で生息している。最適の湿度と温度で、思い思いの姿で生きる。葉は艶ややかで濃い緑色、花の中央から伸びる柱頭は真っ直ぐで、先…

短編作「小休止」

小休止 〈 緑 〉扉を開けると、甘い花の香りと、湿気を含んだ空気に包まれる。その空気を吸い込むと、僕の体は弛緩され、強張った神経の糸が緩む。植物園内の温室は、緑や樹木が活き活きと、自由な姿で呼吸をしている。天井近くには、ハイビスカスやブーケン…