🌟short story writing📚💻📝

気ままに短編小説を書いています。

潮風の吹く街


「どげんしたら、こん街から出られるんじゃろ?」

高校からの帰り道。しーちゃんはぼくと肩を並べて歩いているとき、よくこの台詞を吐く。

「手に職をつければどこにでん行ける。しーちゃんは看護婦になっとじゃろ?」

「そうやけど。うち頭悪いから自信がなか。それに、おかんと弟をあの家に置いて出ていけん。」

 しーちゃんは高校卒業後、地元の看護学校に推薦入学することが決まっていた。女子ハンドボール部の主将をやっていたことが評価されたのだ。真っ黒に日焼けして、男子みたいなショートカットの彼女は、顔や体のいたるところに痣を作っては、ハンドボールのやり過ぎだと皆にからかわれていた。いつも大きな声で笑うしーちゃんはクラスメイトから愛されていた。そして、傷だらけの体はハンドボールではなく、日常的に父親から殴られて出来ていたことをぼくだけが知っている。昼間から酒臭い息を吐く中年男性が練り歩く光景は、この街では珍しくない。しーちゃんの父親はそういう人間だ。ぼくは学年で唯一、東京の大学に進学することを目標にしていて、授業後はいつも図書室で自習をしていた。遅くまでグラウンドを駆け回るしーちゃんと、ぼくの帰る時間は自然に重なった。

「うちさ、こげん漁港じゃなくて、『風の歌を聴け』に出てくようなお洒落な港町に生まれよごたった。」

「かっこよかね。外人がたくさんおって、バーがある港。」

「あれ、神戸じゃろうか。いつか行ってみよごたっ。」

 ぼくはしーちゃんにいろいろな小説を貸していた。「風の歌を聴け」は去年発売された小説で、村上春樹という作家のデビュー作だ。さらりとした文体が新鮮で、ぼくはとても気に入った。普段本を読まないしーちゃんは、ぼくが読む小説には興味を抱いていてくれる。道端に捨てられたトロ箱を避けながら、魚の匂いがしない港を二人で想像した。

「おいが東京ん大学入ったら、遊びんけ来て。」

「うち、行ってよかと?」

「もちろん。いろいろ案内すっど。すぐに向こうから手紙書くど。」

 ぼくは無事に東京の大学に合格した。そして、しーちゃんに手紙を書いたが返事は来なかった。

 


 あれから四十二年。

年末年始にしか帰省しないぼくは、梅雨入り前の南九州の高い湿度にたじろいだ。地元の寂れたアーケード街を抜けると刺すような太陽の熱が迫り、目がくらむ。還暦を記念して、高校三年のクラス内で飲み会をするという案内が、幹事からメールで届いた。

『保志、今度の飲み会にしーちゃん来るぞ。お前、仲良かったよな?』

ぼくは、しーちゃん、という響きを反芻し、胸の奥が痛んだ。参加するかどうかを逡巡したが、行くことを決めた。

「ヤスくん、久しぶり。」

しーちゃんは薄ピンクのシャツにバギーパンツを履いて、高校生の時と同じような短い髪を赤っぽく染めていた。ふくよかな体型に、おおぶりな淡水パールのネックレスが似合っている。

「うち、神戸に嫁いだど。バーのあるおしゃれな港に。じゃっどん離婚して、娘連れてこけに戻った。」

「しーちゃんは、ここん海んほうが好きなんじゃろ?」

「漁港から出ろごったんにね。今でん看護師やりながら、おかんとうちと娘、女三人で気楽に暮らしちょい。」

 そう笑って、彼女は生ビールを飲み干した。

 

 ぼくは二次会の参加を断り、一人で海岸沿いを歩いた。重油と魚の匂いが混ざった空気に包まれる。昔はこの匂いや、肉体労働者ばかりの風景が嫌いだった。ぼくはずっとこの場所を見下していた。お洒落なバーのある街になんて、将来いくらでも行けると思っていた。しーちゃんのことを可哀想と思いながら、それとなく上からの目線で接していた。彼女は、そんなぼくの行為を見透かしていたのかもしれない。今はもう、手紙をくれなかった理由を追求する気持ちは霧散していた。しーちゃんはあの頃より幸せそうだ。酔った体に、潮風が心地よく感じる。この街に不似合いなヤシの木が夜風に揺れている。木の下を歩くと、たわわに実った果実が今にも落ちてきそうで身をすくめる。そんな臆病な男を、ヤシの木は笑うかのように葉擦れを繰り返した。