恋の終わり

植物園内には緑が生い茂る山道がいくつかある。その中のひとつは樹木が鬱蒼と広がり、静寂に包まれているが、そこを登りきると急に空が開ける場所に出る。「お花畑」と呼ばれるその場所には小高い丘があり、四季折々の花が一面に広がっている。私は時々ここを訪れ、花をぼんやりと眺めながら時間を過ごす。10月の澄んだ青空にはふわふわと舞うような鰯雲が広がっていて、見ているだけで気持ちが和む。そんな秋空の下、お花畑には色とりどりのコスモスが咲いていた。

コスモス、と聞くとピンク色をイメージするけれど、実際には、白、赤、黄色などの様々な色味を持つ。「秋桜」という字のごとく、細やかな花弁と繊維のように細い葉が風にそよぐ姿は儚げな印象を与える。コスモス畑を散策していると、丘の中腹で熱心に写真を撮っている女性の姿が視界に入った。ボリュームのあるグレイヘアを頭の高い位置にアップにまとめ、色あせたジーンズの膝の部分はところどころダメージがある。ざっくりとした網目の黄色のセーターをおしゃれに着こなしている。活発そうなマダムだ。彼女が捉えているのは、赤茶色のコスモスだ。色とりどりのコスモスの中で、一番地味な色彩のコスモスに憑りつかれたように接写している。そこには、赤茶からこげ茶色まで、暗いトーンを成したものが群生していた。そのコスモスは、レンズ越しからどんな風に映るのだろう。そんなことを考えながら私はマダムの近くまで行き、茶色のコスモスを観賞した。

「このコスモス、チョコの香りがするのよ。」

突然マダムが喋りだした。私のほうを見ず、カメラを抱えたままだったので、ひとり言かと思った。そのあとに、ちらと私の顔を見たので、どうやら私に向けて発信したらしい。

「え、ほんとですか？」

私は突然話しかけられたことと、チョコレートの香りがするコスモスの存在があること、その二重で驚いてしまった。マダムは焼けた肌に、鮮やかなオレンジベージュの口紅を塗った口元を綻ばせて私を見る。目尻の皺が、彼女の表情に自然に馴染んでいた。

私はコスモスに鼻を近づけた。香ばしいカカオの香りと、微かに甘い香りが漂う。私は、まるで漫画に出てくる犬みたいにクンクンと念入りに匂いを嗅ぎ、改めてマダムの顔を見た。

「ほんとにチョコレートの香りがしますね。」

「でしょう？茶色のコスモスは、別名『チョコレートコスモス』って言われているの。」

「まさに名前の通りですね。自然の花からチョコレートの香りがするってなんだか不思議です。」

他のコスモスとは、見た目も香りも一線を画すから、マダムはその姿に執着しているのだろうか。カメラを向ける理由を尋ねようとした矢先、マダムは思惑を含ませた様子で語りだした。

「どんな植物にも花言葉ってあるでしょう？コスモスは色によってそれが違うの。赤は『調和』、ピンクは『純潔』、白は『優美』。いかにもって感じの言葉が与えられているんだけど。この茶色い子たちはねぇ…。」

マダムはその先を尋ねて欲しいと言わんばかりの調子で話すので、私は素直に応じた。

「茶色の花言葉はなんですか？」

「恋の終わり。」

「え…。」

「なんだか可哀想でしょう？見た目が地味だからって、なにもそんな花言葉にしなくてもいいのに。」

「そうですよね。みんなと同じように、明るい雰囲気の言葉をつけてあげてもいいですよね。」

「茶色だから『恋の終わり』って。私みたいなおばあちゃんが聞くとますます落ち込んじゃうわ。」

マダムは眉毛をハの字型にして微笑んだ。

「そんな、全然おばあちゃんじゃないですよ。まだお若いです。」

私はそう言って否定した。高齢かもしれないけれど、姿勢や服装は老いを感じさせない。

いえいえ、と言って謙遜するマダムはコスモス畑を見ながら目を細めた。

「年を重ねるって、いいこともあるし、いろんなことが分かるようになるのだけど。やっぱり、少し寂しいわ。」

その後、互いの深い部分に入り込むことは無く、私たちは簡単な世間話を交わした。私は会釈をしてその場を離れ、マダムは再びカメラの世界へ入っていった。

私は引き続き植物園内を散策したが、なんだか無性に甘いものが食べたくなった。チョコレートコスモスの香りに誘発されたのかもしれない。植物園を出てすぐ近くにあるカフェを目指した。

カフェのカウンターでコーヒーとケーキを注文しようとしたとき、「期間限定販売・ホットチョコレート」というメニューに目を引かれた。飲むチョコレートのことだ。肌寒い時期によく見かける飲み物だけど、味わったことがなかった。私は少し考えたあと、あのコスモスの余韻に浸りたくてホットチョコレートを注文した。

甘い香りが漂う茶色の液体を口に含むと、それはどろりとした舌触りで、喉をゆっくりと伝うように流れていった。予想はしていたけれど、かなり甘い。それは、チョコレート風のドリンクというより、「チョコレートそのものを飲む」というほうが正しい表現になるくらいの濃厚さだった。歩き疲れた体をじんわりと癒してくれるが、半分近く飲んだ時点でくどくなった。ブラックのコーヒーが飲みたい。

「恋の終わりかぁ。」

私はふと思い返す。「終わり」を実感するような恋を、もうどれくらいしていないのだろう。

男性となんとなく仲良くなって、いい関係になり、時を経て自然消滅…。最近の私はそれを繰り返していた。一人で過ごす時間は楽しいし、仕事も軌道に乗っている。そんな私は夢中になって恋をする感覚から遠のいていた。カップの中で半分以上残ったチョコレートドリンクはどんどん冷めていく。まるで私みたいだ。熱くて溶けるような恋をしたい。あらゆる感情をむき出しにするような、激しい恋。そんな恋に落ちる自分に出会いたい。この先、そんな日が訪れるのだろうか。私は、マダムがチョコレートコスモスの花言葉を語った際の切ない表情を思い出した。彼女は、これまでどんな風に生きてきたのだろう。今になって知りたくなった。ピンクや白や赤の時代が過ぎ、やがて茶色になっても、芳しい香りを放つことができるような生き方。そんな風に年を重ねていけたらいいな。私はカップに残ったホットチョコレートを少しずつ口に含む。その甘い液体を、口の中で温めるように飲み込んでいった。