雨が訪れる前

雨風が窓を叩く音で、眠りから覚めた。カーテンから弱い光が差し込んでいるから、夜明け頃だろうか。今日は土曜日だから、時間を気にせずに寝よう。私は寝がえりを打つ際、後頭部にズキズキとした痛みを感じた。ああ、またやってしまった。飲み過ぎは駄目だと分かっているのに、どうしても飲んでしまう。胃がもたれていて、全身が気怠い。こんな風に二日酔いに襲われることが分かっていても、アルコールを欲してしまう。雨が訪れる前は。

昨日は、夕方前から右足首の古傷から疼くような痛みが走りだした。その痛みは、やがてふくらはぎから臀部にまで広がり、体全体が鉛のように重くなる。きっと、未明から雨が降る。私の体はどんな天気予報よりも正確に雨雲の動きを捉えるのだ。すると、気持ちがどんどん塞ぎ込み、嫌な感情が膨れ上がる。低気圧の到来とともに古傷が痛み出したり、気分が落ち込んだりする症状を総称して「気象痛」といわれる。この病の特効薬はない。私の場合、痛みを弛緩してくれるのがアルコールだ。私は、身体の痛みと鬱々とした感情を追い払うために、多量のアルコールを摂取する。

昨日は退社後、会社の最寄駅から一駅分くらい離れた場所にある、普段は歩かないような古い商店街を歩いてみた。雨が降る前は、なんとなく目についた飲み屋に入り、好きなだけお酒を飲むことが習慣になっている。私は、右半身を蝕む不快な痛みを抱えながらゆっくりと歩くと、商店街の奥まった所に、怪しげなネオンが見つけた。「ボンボンセンター」と掲げられたネオンは古くさいが、私は躊躇い無くそのネオンの下を通った。そこは、小さな酒場が軒を連ねる袋小路になっていた。どこへ行こうか。ぐるりと一周して、私は一番奥にあるワイン酒場へ入った。そこの店名は覚えていない。私はひっそりと佇む隠れ家が好きなのだ。そして、その店のカウンター席でワインボトルを注文した。

レインツリー。頭の中でその言葉がこだまする。明け方の、陰鬱な暗い空から降り注ぐ雨の音と、レインツリーという爽やかな響きが、現実と夢の間を行き来するような感覚をもたらす。あの酒場の、私の隣りに座っていた男性の読んでいた小説のタイトル「レインツリーの国」に、思わず目がいった。私は植物に詳しくはない。ただ、レインツリーの存在は頭にしっかりと刻まれているのだ。レインツリーの正式名称は「モンキーポッド」。別称で、「アメリカネムノキ」または「レインツリー」と言われる。この木は、雨が降る前に葉と葉をぴったりと合わせ、木全体を小さくすぼめてしまう習性があるから、「レインツリー」という別称がついたそうだ。雨を感知する能力が私と共通しているようで、鮮明に記憶に焼き付いた。

小説を読んでいた男性は、私より５、６歳若いだろうか。飲み歩いているような雰囲気ではないけれど、あの店ではリラックスして過ごしているのかな。とても純粋な人に思えた。普段の私は、酔った勢いで見ず知らずの男性と会話が弾み、行きずりの関係に陥ることが多い。だけど、昨日の彼は、そんなことをしてはいけないような気がしたのだ。彼と少し会話をしただけで、頭の中にハワイの景色が浮かんだ。それは、爽やかで気持ちのいい風を感じる風景。レインツリーの木漏れ日の中で、隣りにいる彼と、手を繋ぎたいと唐突に思った。ふわふわとして掴みどころが無い、不思議な感情が湧いたのだ。

帰り際に、彼が言った言葉がリフレインする。

「かんき…」

私は枕に顔を埋めながら呟いた。すぐに漢字が出てこない。

頭の中で字を変換する。「歓喜」。この単語には、「よろこぶ」という文字が二つも組み合わさっている。きっと、最上級の幸せを表した言葉なのだろう。「歓喜」がどういう感情なのが、想像ができない。少なくとも、今も私には遠くかけ離れた言葉だ。なぜ、レインツリーにこの花言葉が与えられたのだろう。

めくれあがったベッドのシーツを蹴飛ばしながら、何度も寝がえりをうつ。雨が降ると、身体を蝕んでいた痛みは消え、二日酔いが残る。私はいつまでこんなことを繰り返すのだろう。ベッドに横たわりながら、枕元に置いてあるスマートフォンを持ち、アマゾンの商品検索のページを開いた。

「アリカワヒロ　レインツリーの国」

そう打ち込み、検索するとすぐに書籍紹介のページが出た。

彼が読んでいた小説のカバーが画面に羅列されている。私は、書籍紹介のページも見ずに、反射的に商品をカートに入れた。私は普段から小説は読まない。だけど、いまは「レインツリーの国」を読みたい。その世界に、どんな「よろこび」が描かれているのだろうか。

そして読み終わったあとに、あのワイン酒場で彼に会うことが出来たら、この小説の話が出来るだろうか…。

なんて都合がいい想像なのだろう。思わず苦笑してしまう。

私は雨音を聴きながら目を瞑り、青空に向けて悠々と枝を広げるレインツリーを思い浮かべた。