🌟short story writing📚💻📝

気ままに短編小説を書いています。

黄色の家

恐る恐るアトリエの扉を開けると、作業台の上に乱雑に置かれた食材が目に入った。いちじくとパン、チーズとソーセージ、ふかしたジャガイモ。ワインボトルとグラスも何本か並んでいる。クロスの柄は、目が覚めるようなオレンジと白のギンガムチェックだ。部屋の隅に、綻んだハンチング帽を被った男がひとり、葉巻の煙をくゆらせている。アトリエの壁には油彩画が何点も飾られていた。油彩画のモチーフは、道端の花や杉の木などの植物が多いが、ベッドやソファと言った家具類を捉えた作品もある。見慣れた絵画たち。これらが一同に並ぶ様子を初めて目の当たりにし、圧倒される

「来るのが遅いよ。もう鑑賞会が始まるよ。」

葉巻とワイングラスを交互に口にしながら、赤ら顔の男が僕に不満をこぼす。

「フィンセント……。鑑賞会ってどういうことだ?」

「この部屋を見れば分かるだろう?俺の絵だよ。」

「誰も誘ってないだろう?」

フィンセントは乱暴にグラスを作業台に置いた。振動で、チーズが皿から転がった。

「誘ったさ!何軒もの飲み屋で、みんなに言ったんだ。今夜は俺の絵を鑑賞しながら宴会しようって。みんな楽しみにしてるって。約束したはずだ……。」

彼の語気は次第に弱くなった。僕は、部屋の中にいくつか置かれているランタンに息を吹きかけて、灯を消していった。作業台の中央に置かれたランタンの灯だけを残す。部屋が薄暗くなると、フィンセントの表情に翳りが増した。

「なぜ灯を消すんだい?」

「君の絵の色は強すぎる。照明を落として見ないと、フラフラしてくるよ。」

「色が強い?俺は自然の美しさをそのままに描写しているんだ。花も太陽も、川も月光も。」

「そのままに、か……。そしたら、このアトリエの家具の描写はどうなんだ?クリーム色のベッドは、真夏のひまわりのような黄色をのせている。薄汚れたソファは、深紅に様変わり。アトリエの外壁は、本来はくすんだ黄色なのに、レモンイエローに大変身。」

僕は、作品ひとつひとつを手で指しながら説明した。

「作品の鑑賞以前に、皆が君のことを心配しているんだ。」

「へぇ……。俺のことを何て言ってるんだ?」

フィンセントはグラスのワインを一気に飲み干した。据わった目で僕を睨みつける。

「フィンセントは……。頭がどうかしてるって。」

「ふざけるな!」

彼はいきなりグラスを床に叩きつけた。油絵の具がそこらじゅうにこびりついている床にグラスの破片が散る。色彩を乗せた破片がキラキラと光った。グラスの崩壊と共に、僕が今まで耐えてきたものが、プチンと音をたてて切れた。

「もう……よしてくれよ。こんな生活は耐えられない。僕はここから出ていく。」

「ポール、なんでそんなことを言うんだ?」

「君と一緒にアトリエで共同生活をすると、僕のあらゆる気力が奪われるんだ。君という人間のパワーが強すぎて。」

「俺を、ひとりにしないでくれ。孤独が襲ってくると息が出来なくなる。」

「もう、無理なんだ。フィンセント、許してくれ。」

僕がそう言い終わるやいなや、フォンセントはテーブルの上にあったペティナイフを手に取り、右耳に寄せ、すばやく刃を動かした。

「うぎゃあぁぁぁぁぁ!!」

窓ガラスが振動するほどの、フィンセントの激しい悲鳴が炸裂した。手と顔が血まみれになっている。僕はその場で尻もちをついてしまった。

「な……、何やってるんだ!」

彼は右耳に手を添えていたが、やがて腕をおろした。血に染まった手から、何かが転がり落ちた。芋虫のように縮こまった、肉片だった。

僕は四つん這いになりながら扉へ移動した。早く逃げなくては。このまま殺されるかもしれない。耳から血を流しながら、フィンセントは青白い顔で僕を凝視する。

「一人きりになるのは嫌だ……。血を流すより辛い。」

僕は扉を開けた。そして一目散に駅へ向かった。

 


『田園風景の中で、ひたすら絵を描いて過ごそう。僕ら二人なら、芸術を高め合うことが出来る。』

そんな会話をした日が、遠い昔に思える。

僕はよろめきながらも懸命に足を動かした。一刻も早くパリへ戻ろう。

一度だけ振り返り、アトリエを眺めた。茜色と群青色が溶け合う、美しい夕闇に浮かび上がる黄色の家。その情景は、フィンセントの絵の世界そのものを表していた。

そう。僕は彼の絵の美しさを誰よりも理解している。彼の絵は、唯一無二の世界を持っている。近い将来、認められる日が来るだろう。そして、遠い未来にかけて名を刻むほどの引力を放つだろう。

「色が強すぎる」なんて、陳腐な台詞を言いたかったわけじゃない。

しかし僕は、彼に対して素直に作品を称賛する言葉を発せられないほど、精神が衰弱していた。

一緒にいたら、彼の至高の芸術の炎に包まれて、僕は灰になってしまう。

だから、逃げるしかないんだ。

悲鳴も鮮血も、ずっと脳裏に焼き付いている。

フォンセントの体の一部が、赤く染まった床のうえで今も蠢いている。