簡単な夕食を済ませ、食器を洗った後に白い錠剤を2つ口に入れる。
麦茶で流し込んだ後、ウォーキングシューズを履いて外に出た。
陽が落ちても日中の熱気がアスファルトに残っていて、足元からじんわりと熱が伝わる。
ぼくはスマートフォンに繋いだイヤフォンを両耳に差し込み、音楽を聴きながら夜道を歩く。曲はビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」。夜なのに、「太陽の到来」を意味する曲を聴くのは不思議な感じがするけれど、軽やかなメロディが心地よくて散歩に適している。
横断歩道の赤信号で歩みを止めないよう、何度も角を曲がりながらひたすら前進する。いつも行先は決めない。住み慣れた街だけど、歩くことで今まで気づかなかった景色に出会うことが出来た。雑居ビルと古い長屋に挟まれた路地の奥に進むと、軒先で野菜や肉を売っている店を発見した。店主はおらず、柴犬が眠そうな顔で店番をしていた。ナイター中継を大音量で流している民家がある。その隣の家は、美味しそうな鰹出汁の香りをいつも漂わせている。住宅地の中にある小さなコインパーキング。そこに停まっている車の下にはいつも数匹の猫がいる。猫たちはガラガラと声を発しながら縄張り争いをしている。
夜の風景のカケラを集めて、頭のなかの標本に並べていく。それは密やかで素敵な作業だった。
ぼくのように、夜に散歩をする人は結構いる。鞄を持たず、ラフな格好で歩く人を見れば分かる。どの人も緊張が抜けた表情をしていて、思い思いに夜気を吸い込んでいるからだ。
ぼくは今まで散歩をする習慣は無かった。
小学校教諭としての仕事を終え、へとへとになって帰宅したあとは夕飯をかき込んで眠るだけの生活を繰り返していた。仕事はハードだけど子どもたちのことは好きだし、やりがいを感じていたが、2年前に体が動かなくなった。
過労に加えて、1人の保護者からクレームがきっかけで歯車が狂う。ぼくの教え方が悪いから、子供が受ける校外の模擬試験の成績が下がるいっぽうだ、と言われた。そのクレームは瞬く間に他の保護者にも広がり、児童たちの態度が次第によそよそしいものに変化していった。ぼくは必死になって教え方を改善しようとしたけれど、ぷつんと糸が切れてしまう。
「うつ症状に伴うパニック障害」という診断を受け、3か月間休職した。復帰しても通常の業務が出来ず、副担任として補助的な仕事をこなしていた。
心の病なんて、他人事のように考えていた。
ぼくは繊細な性格ではない。どちらかといえば単純で楽観的なほうだ。だけど病は、深い井戸のようにぼくを闇の世界へ引きずり込んだ。
「ヒア・カムズ・ザ・サン」を何度もリピートしながら、すでに2駅分くらいの距離を歩いている。
新しく処方された薬の作用か、夜になると頭が冴えて体を動かしたくなる。
その効果で寝つきは改善された。
見慣れない住宅街のなかを歩いていると、醬油が焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。道行く人の往来も増えてくる。イヤフォンを外すと喧騒が聞こえてきた。人の流れに乗ると、神社に辿り着く。鬱蒼と生い茂る樹木の合間から、屋台の光が漏れていた
夏祭りだ。
子どもたちのはしゃぎ声が、醬油やソースの匂いと共に膨らむ。カラフルな屋台の前に並ぶ人たちは、「祭り」という名の夜の魔法に包まれると落ち着かない表情になる。日が暮れても鳴く蝉。欅の葉擦れの音。威勢よく喋るお好み焼き屋の店主。男子の、女子の、笑い声。鉄板から発生する、叫ぶような焼成音。
気が付くと全身から汗が噴き出した。心臓が早鐘のように波打つ。やばい。こんなところで発作を起こしてはいけない。ぼくは暗がりを探し、神社の境内の隅の階段に座り込んだ。
渦巻くような音の洪水が引いた後、今日起きたことがフラッシュバックする。
理科室での授業。ぼくは試験管を片付ける最中にうっかりそれを落として割ってしまった。
硬直する空気。試験管は砂のように細かく砕けた。
「ごめん。みんな、怪我はないかな?」
絞り出した声は何とも頼りなく響いた。周りの児童たちは一斉に首を横に振る。
「先生、大丈夫ですか?」
1人の女子児童がちりとりとほうきを持って近寄ってきた。ぼくはその子に礼を言って掃除を始めた。
やっぱりおまえは出来ないんじゃないか――
疑いの目。失望の目。侮蔑の目。
みんなの眼差しが矢のように刺さる。
ゆっくりと目を開ける。
ぼくが座る場所の斜め前に、金魚すくいをしている少年がいた。その屋台は人気が無く、
高齢の男性は気怠そうに店番をし、少年の挙動を無言で見つめていた。
少年はすくい網を水の中に入れ、ターゲットを探す。
駄目だ。むやみに網を動かしてはいけない。目的を定めてから入れないと紙がふやけてしまう。
そう助言したい自分を抑える。少年は何回もすくい網を駄目にしては小銭を払い、金魚すくいに挑む。五回目の挑戦。比較的小ぶりな金魚が隅のほうへ泳いでいったのを見届けたあと、彼は瞬時に網を入れ、その金魚を乗せ上げた。
やった!
思わず拳を強く握る。
少年は嬉しそうな表情でその金魚をもらい、人混みのなかに消えていった。
心の中に灯がともる。
ぼくは、やっぱり子どもが好きだ。
再びイヤフォンを両耳に差し込んだ。
耳慣れた軽快なメロディが流れる。
屋台の明かりがゆらゆらと揺れ、夜の闇に溶ける。万華鏡の中を覗いているようだ。
一筋の雫が流れたあと、風景は輪郭を伴ってもとに戻る。
「イッツオーライ……」
歌に乗せて口ずさむ。
今日という一日を乗り越えることができたらそれでいい。
明日も朝起きて、太陽の光を浴びる。
イッツオーライ。一匹でも金魚をすくえたら大丈夫。試験管を割らないように気を付ければいい。
きっと大丈夫なんだ。