「どうして携帯を川に投げたの?」
彼女を抱きながら尋ねた。それは確かに僕の声なのに、なんだか他人の声のように聞こえた。
川面を叩く雨音が、沈黙の濃度を上げる。彼女の湿った吐息だけが耳に届く。
「…もう、必要なかったから。」
僕の首元で聞こえる声は小さいけれど、意思の強さを滲ませていた。
「そうなんだ。」
僕はそれ以上何も聞かなかった。尋ねるべきではないと思ったのだ。
「あなた、川、好き?」
彼女は初めて僕の目を真っ直ぐ見ながら、そう尋ねた。その目は、目の大きさに対して黒目が大きいけれど、それ以外の白目の部分は充血していた。目の下のクマは、濃い輪郭を作っている。
「好きだよ。だから川沿いに住んでる。」
「私も同じ。」
こんな会話をしていることが不自然に思える。けれど、ぼくらにとって自然な会話と呼べるものって何なのだろう?
体を密着させたまま、同じリズムで呼吸を繰り返す。
「あなたが見ている前で、わざと携帯を投げたの。」
「どうして?」
「こうしたかったから。」
僕の腰に絡まる腕に、強さが増した。
彼女の言葉が真実かどうか、分からない。嘘かもしれない。演技かもしれない。冷静に判断する余裕は無いし、理性なんてとっくに消失してしまった。僕は、彼女が赤いスマートフォンを川に投げ捨てる姿を見た時から、網にかかった魚同然なのだ。僕らは流れ込むようにエレベーターに乗り、強く、そして長いキスをする。エレベーターの中は薄暗くて埃臭かった。彼女が「5」という数字を押すと、その空間はガタガタと不穏な音を響かせながら動き出した。彼女は6階に住んでいなかった。
細い腕に導かれるままに部屋に入る。そこは、やけに広いワンルームで、家具らしいものは置いていない。照明が点いていないから部屋の中は暗い。だんだん目が慣れてきて、部屋の全貌が分かると、僕は息を呑んだ
部屋には、事務的な机と、その上にパソコンとプリンターが設置されている。それ以外は、広いベッドと本棚が置いてある。本棚にはぎっしりと本が差し込まれていて、そこに収まらない本は、床の上に直に置かれていた。それらは塔のように積み重なり、あちこちに点在している。床には、足の踏む場が無いほど、白いものが散らばっている。A4サイズのコピー用紙だ。目を凝らすと、文字が隅々まで印字されている。パソコンの主電源は点いたままで、鈍い電子音を発しながら青白い光を発光させていた。僕は部屋の入口で立ちすくむ。
「文章、書く人なの?」
「そう。」
「すごいね。どんな文章?」
「小説。もう一行も、一言も、言葉が出てこないの。突然そうなった。新しいものを書こうと思っても、頭が動かないの。まるで、言葉を封印させる魔術にかかったかのように。」
抑揚のない声は、広い部屋にこだまするように響く。
「じゃあさ、ぼくが魔法を解いてあげるよ。」
「ほんとに?」
彼女はわずかに微笑んだような気がした。彼女の手でワンピースがするりと脱がされ、コピー用紙の上に音を立てて落ちた。淡いピンク色のショーツを履いただけの彼女の体は引き締まっていて、美しかった。へその右上あたりに、親指の爪くらいの大きさのホクロがある。まるでへそが二つあるみたいだ。そのホクロは、彼女の整った体に奇妙なアンバランス感を与えていた。ぼくらはベッドの上で抱き合い、彼女は僕の服を丁寧に脱がせる。エントランスで出会った時のような激しさはなく、優しく抱擁し合う。
今、僕の腕の中に彼女がいて、その滑らかな肌に触れているのに、ずっと夢の中にいるような感覚を伴っていた。魔法にかかってしまったのは、僕のほうだ。カーテンの隙間から月光が入り込む。その光は川の揺らぎを映し、この部屋の天井でゆらゆらと波打っている。僕は彼女の中に入りながら、二人で水の中を泳いでいるような気分になる。やがて、あたたかい泥の中に埋もれ、全身が解されていくような感覚を味わいながら果ててしまった。
互いの呼吸が落ち着き、彼女は僕の心音を聞くような体勢で寄り添う。
「名前、なんていうの?」
僕は聞いてみた。
「さり。」
「さり?」
「そう。」
彼女は僕の名前を問わなかった。だから、あえて自分から言わない。そのことが少しだけ僕を落ち込ませた。そして波の侵食に遭うように、僕はすぐに深い眠りに落ちた。
陽が昇る少し前に僕は目が覚めた。さりは僕に背中を向けて、規則的な寝息をたてている。
もしかして、寝たふりをしているだけかもしれない。上下する肩はやけに細く見え、この体から小説が生み出されることが不思議に思えた。そして、数時間前にこの女性とセックスをしたことが、なんだか信じられない気持ちだった。僕はゆっくりとベッドから降り、服を着た。音をたてないように忍び足で部屋を横切る。そうしながら、散らばったコピー紙の文字が目に入ってくる。何枚かの紙に、カッコ書きで印字された文字があった。
――封印された記憶
その言葉はコピー紙の先頭に印刷されており、その下に横書きで文章が連なっている。そんな形態のものが何枚も散らばっていた。そして、「封印された記憶」の横には、どれも手書きでバツ印が書かれてあった。さりは、このタイトルで物語を紡ぎだそうとしていたのだ。
部屋の扉を開けると、雨上がりの、もわっとした空気が僕を包む。廃墟のようなマンションを出て、川沿いの道を歩く。川は増水していて、土や草やドブの匂いを混ぜたようなものが立ち込める。僕は、徐々に薄まっていく群青色の空を仰ぎながら、早く自分の部屋に戻りたいと思った。そして熱いシャワーを浴びたい。ひげを剃った後、ブラックのコーヒーとマーガリンをたっぷりと塗ったトーストを頬張りたい。そして、自転車に乗って職場へ向かう。僕は、いつも通りの朝を迎えたかった
自分のマンションに入る前に、もう一度ゆっくりと川を覗く。この川底には、赤いスマートフォンが眠る。赤いスマートフォンは、さりにとって「封印すべき記憶」そのものだったのだろうか。僕と過ごした一夜も、さりの中で封印されるのだろうか。今夜もさりは、キャミソールにショートパンツ姿で、洗濯物を干すかもしれない。僕は、いつもと同じようにビールを飲みながらその姿を眺める。だけどこの先、二人が会って話をする機会は無いだろうし、会うべきではないのだ。再びさりに会えば、僕はきっと「さりの世界」に引き込まれ、そこから這い上がれなくなるだろう。そして、赤いスマートフォンと同じように川底に沈んでしまう。
殺風景なさりの部屋や、その体の柔らかさや腹のホクロを、何度も思い出す。僕は、さりのことを封印できそうにない。心の中にある秘密の箱を時々開け、中身を確認して、また閉めるという行為を繰り返すのだ。時間の経過と共に、その開閉は減るだろう。それでいい。
川は雨水によって澱みを増しているが、抜けるような青空が川面に映っていた。地平から顔を出したばかりの太陽が川に反射し、その光の強さに僕の目は眩んだ。