「昔、ここには『喫茶ボンボン』という喫茶店があってね。その店の名前をとって、この一角の商店をボンボンセンター、と名付けた。俺もよくボンボンでコーヒーを飲んでいたよ。サバランが美味しかったなぁ。」
「それでボンボンセンターなんですね。」
「喫茶ボンボンはとっくの昔に閉店したけれど、『ボンボンセンター』という名称はみんなの耳に馴染んでいたし、ネオンを撤去することに抵抗があってね。町内で話し合い、このままにしたんだよ。」
やはり、この袋小路のレトロ感は昔ながらの人の流れを受け継いで、生まれたのか。
「ここの長屋の建物、かなり年季入ってそうですね。」
「そりゃそうさ。この長屋は戦後すぐに建てられたんだもの。」
「戦後?そんなに古いんですか?」
僕は驚いた。
「もともと、ここは戦後の闇市が行われていたらしい。それで住民は、袋小路の目立たないところに集まり、物品を調達していたんだろうな。」
僕が座るこの場所が、半世紀以上前から物品の動きがあったのかと思うと、何だか落ち着かなくなる。このタイルのカウンターは、「トナカイの家」が開業するずっと前から存在し、様々な人の肌に触れられてきたのだろうか。掌でカウンターの凹凸を興味深くなぞっていると、胃袋がキュンとするような、香ばしいバターの香りが漂ってきた。
「キッシュです。お待たせしました。」
マスターがオーブンで温めたキッシュの横にはベビーリーフが添えられている。僕はナイフで大きめにキッシュを切り取り、口に入れて噛みしめた。土台となるパイ生地からじゅわっと沁み出るバターが、ふんわりとしたオムレツと溶け合い、至福の味わいとなった。オムレツの中の、しめじとベーコンと玉ねぎの歯ごたえと香りが、よいアクセントになっている。一口、二口と噛みしめるごとに、幸せのオーラに包まれるような美味しさだった。
「すごく、美味しいです。」
僕はしみじみとそう口にすると、マスターは微笑んだ。
「ありがとうございます。キッシュは、僕が料理の世界に入って、初めて任されて作った料理なんです。何度も練習して身に付けた料理なので、大切にしている味です。」
このキッシュは「トナカイの家」の土台となる味なんだ。一番最初に、この料理を口に出来たことは幸運だ。キッシュの塩加減がワインのぶどうの甘さと融け合い、口の中でふわりと旨味が広がる。
「キッシュ、すごくワインに合いますね。」
僕は、キッシュを頬張りながらマスターに話しかけた。
「このキッシュには、ブルーチーズも少し入っているので、赤ワインとの相性はばっちりです。」
「ブルーチーズって、青カビですよね?初めて食べます。全然苦みがないですね。」
「ブルーチーズは加熱すると、苦みは消えて、よい塩加減をもたらします。味に奥行きを出してくれる、引き立て役ですね。」
「僕、ワインやチーズの知識が全然無いんですけれど、このコンビ、ハマりそうです。ワインが進みます。」
「二軒目としてこの店に来られるお客様の中で、ワインとキッシュだけを召し上がられる方、結構いますよ。」
僕は口中に広がる至福の味を保ちながら、ポケットからスマートフォンを取り出し、フェイスブックのページを開いた。だけどすぐに画面を閉じた。なんだか写真を撮って投稿する行為が、ここでは相応しくないように思えた。ネットニュースを見ることもやめた。そして唐突に、小説が読みたいと思った。何故だかよくわからない。僕は普段から読書をする習慣が無い。仕事が終わった後は帰宅して、母親が作った夕飯を食べ、自室でテレビを見るか、ゲームをするくらいで趣味らしいものがない。だけど、もしこの場所で、ワインとキッシュを食べながら小説の世界に浸ることが出来たら、どれほど濃密な時間を過ごせるだろうと想像した。日常から離れた世界に行くことは、僕を変えるきっかけになるかもしれない。それを実践したいと願った。僕はマスターにお会計を頼み、席を立つ。
「また来ます。」
そう告げて、木の扉に手を掛ける前に、店内を振り返る。最後にもう一度、店の様子を目に焼き付けたい。トナカイの黒目にオレンジ色のライトが映って綺麗だ。その瞳の輝きが、ランプの灯りのように儚げで、この家を優しく見守っているように思えた。
店を出ると、月は雲に覆われ、濃いグレイと漆黒が斑になったような夜空が広がっていた。袋小路の隅に、黒猫が佇んでいて、僕と目が合うと軒下に逃げてしまった。やがて軒下から、猫の黄色の目がきらり光り、僕を観察しているように思える。用心深い猫にも、また来るね、と別れの挨拶を告げた。秘密基地を見つけて、わくわくする気持ちは小学生以来だろうか。この気持ちを抱えたまま、もう少し歩きたくなった。僕の興奮を落ち着かせるかのようにポツポツと弱い雨粒が空から落ち、シャツを湿らす。僕は空の機嫌などお構いなしに、夜道を歩く。トナカイ、ワイン、キッシュ、ブルーチーズに、タイルのカウンター。出会ったものを反芻する。僕の心の中で、新しい物語の扉が開いた。これからあの場所で、どんな風景に出会えるのだろう。今度は、袋小路から星空が見える宵に、トナカイの家に訪れたいと思った。