十歳の誕生日

うちには包丁が無い。

もしかしたらどこかにあるのかもしれないけれど、探したことはないし、ママが使っているところを見たことがない。うちにはハサミがあるから困ることはない。持ち手が大きい調理用ハサミで髪を切ったり、爪を切ることもできる。わたしはこれを「なんでもバサミ」と呼んでいる。五歳の弟の凛太はなんでもバサミを使ってものを切ることが好きだ。プラスチック容器やチラシやティッシュ箱やトイレットペーパーやタオルとか、目についたいろんなものを細かく刻む。ゴミが増えるからやめるように何度も注意したけれど、言うことを聞かないから放っている。たまにママがうちに帰ってくると、部屋を見た途端すごく嫌な顔をする。

「夢子、掃除くらいしなさいよ。」

うちはいつもゴミだらけだ。ママはスーパーのレジ袋を乱暴に床に置いたあと、すぐに玄関に向かう。袋の中には大量のカップラーメンやレトルト食品や菓子パンや缶詰が入っている。「ああ臭い」って呟きながら出ていく。ママは週に二回くらいしか帰ってこないし、こんな風にすぐに出て行ってしまう。何度訊ねても「仕事が忙しいから」としか答えないから、喋らないようにしている。

　夏はいやな季節だ。うちはアパートの一階で日当たりが悪いから、敷きっぱなしの布団がとても臭くなる。窓を開けると、網戸が破れているから虫が入ってくる。凛太は虫を捕まえたあと、なんでもバサミで胴体を切断する。その後に羽や脚を分解する。カナブンやバッタやカマキリや蛾の、どろりとした体液が出てくると、凛太は嬉しそうに眺める。

「むししんで、ドロドロでたー。」

幼稚園に通っていない凛太は、いまだに赤ちゃんみたいな言葉を話す。ハサミをティッシュで拭くとき、虫の体液が指にまとわりつく。虫を切らないよう何度も凛太に注意をしたけれど、言うことを聞かないからあきらめている。

　蒸し暑い夏の夜。ママはスーパーのレジ袋と紙袋を提げて帰ってきた。袋を床に置いたあと、わたしを横目で見た。

「体は勝手に育つって、ほんとなんだ。」

ママが出ていったあと、紙袋の中身を見た。正方形の白い箱が入っている。箱を開けると苺が乗ったホールケーキが出てきた。「いちご、いちご……。」凛太は興味津々だ。わたしは、トレイに乗ったままのホールケーキをテーブルに置いた。ケーキの真っ白な壁が、薄暗い部屋に浮かんだ。凛太はなんでもバサミをケーキの真ん中に差し込み、ぐるぐると回転させる。そして手づかみでケーキを食べ始めた。私は人差し指で生クリームをすくい、舌先に乗せた。砂糖と牛乳の味がする。凛太は右手の人差し指と中指を使って生クリームをすくい、私の口元に運んだ。「ゆめちゃん、あーん。」口を開けた途端、二本の指は刷毛のようにわたしの頬をなぞった。「うひひ。ケーキおばけ。」わたしはケーキを鷲摑みし、凛太の顔めがけて塗りたくった。興奮した凛太は、生クリームを髪の毛に撫でつけたり、苺をわたしに投げたりする。その合間にケーキを頬張る。顔も髪も服もべとべとになり、二人で床に寝転んだ。すぐに蟻がやってくるだろう。なんでもバサミで殺せるだろうか。私はホールケーキに指を一本ずつ入れ、指先にケーキを付着させる。おばけの指になったあと、右手の小指から一本ずつ丁寧に舐めまわす。爪の間に入ったクリームも吸い取る。ローソクがない代わりに、灯を消すようにちろちろと舌を動かす。血の味がする。どこかが切れているのだ。十本の指を舐め終えたあと、ケーキが舞った部屋を見回す。苺の甘い香りが漂っていた。次にママが帰って来るまで部屋はこのままにしておこう。誕生日を覚えていたことの感謝を込めて。