甘い香り

毎晩、焼き芋を買いにくるおじさんがいる。

アタシが働いているコンビニに、決まった時間に来るおじさん。

時間は夜の１１時過ぎくらい。そのおじさんはいつもスーツの上から紺色のダウンコートを羽織っていて、太っていて、髪は薄い。頬はいつも赤くて、少し鼻声で喋る。店に入るとすぐにレジに来る。

「焼き芋一本ちょうだい。」

いつも、こればかりだ。

ほぼ毎日焼き芋を食べて、なんで飽きないんだろう。毎日夜中に焼き芋を食べるからあんなに太っているのかな。たしかに焼き芋は甘くておいしいけれど、毎日は嫌だな。

夜のコンビニの仕事は忙しい。お客が少ないから楽だろう、と予想してここを選んだアタシがバカだった。商品の陳列、揚げ物の補充、在庫管理。接客の合間にこれらをやると、息つく暇がない。そして、アタシが大嫌いな仕事のひとつが「おでん」だ。

おでん。これは、お客がトング使って器に入れたおでんの具材を、店員がチェックして会計をしなければならない。これがすごく大変。玉子、大根、しらたき。これらはまだ分かりやすい。たこもソーセージも。だけど、はんぺんとがんもどきとごぼう巻き、この三つがとても分かりづらい。どれも茶色っぽいし、器の中に箸を入れてかき混ぜるわけにもいかないから、確認しづらい。会計にとても時間がかかる。日本人はなんでこんなものが好きなんだろう。見た目も美味しそうじゃない。冬になるとやたら売れるおでん。温かい食べ物なら、肉まんや焼き芋を買えばいいのに。焼き鳥や串カツだってある。変な文化だ。

一月の最後の金曜日のバイトは最悪だった。

ワンオペのうえ、やたらおでんのお客が重なった。

「がんもどきとはんぺんと玉子とたことこんにゃくで…８５６円です。」

「え？がんもは入れてないよ！よくみなさいよ。」

すっぴんのオバサンは据えた目でアタシを睨んだ。

嘘だ。黒い点々とニンジンが斑に入った茶色い物体は絶対がんもどきだ。白のスウェットを着て、無造作に髪を団子にまとめたオバサン。スウェットの下にはミニオンズのキャラクターがプリントされたトレーナーを着ている。こういう雰囲気の人はアタシの肌の色を見て、強気な態度に出ることが多い。オバサンの後ろはレジ待ちのお客が列を連ねている。みんなのイライラした視線が矢のように刺さる。ミニオンズのオバサンには、すみませんでした、と言ってがんもどき無しの会計を済ませた。アタシは早くこの空気から逃げたかった。

その後も、宅配物の受け取り、コピー機の不具合、滞納していた光熱費の支払い、恵方巻の予約…そういうお客が続く。こういう日は、面倒なお客が次から次にやってくる。

気づいたら、ホットミールの補充が全くできていない。仕方がない。すべて後回しだ。

焼き芋おじさんはいつも通り、１１時過ぎに来店した。そして、焼き芋ケースに焼き芋が一個も入っていないところをみて、足を止める。ちょうどお客の列が途切れたときだった。

「あの…ごめんなさい。焼き芋、売り切れです。」

アタシは思わず自分からそう声に出した。売り切れじゃない。アタシが補充しなかったのだ。せっかくおじさん、来てくれたのに。

焼き芋おじさんは何も言わずに、不満の表情も出さない。数秒の間があって、

「じゃ、ピザまん一個ちょうだい。」

そう言った。

「ありがとうございます。１４０円です。」

アタシは熱々のピザまんをおじさんに渡す。

おじさんはピザまんを受け取ったあと、鞄から何かを取り出した。

綺麗なオレンジ色のひまわりの絵が描かれた、細長いチューブだった。

「これ、ハンドクリーム。シキョウヒンでもらったから。僕は使わないから、あなた使ってよ。」

おじさんは無表情のまま、そう言った。

シキョウヒン。その言葉の意味をうまく呑み込めないまま、アタシは「いいんですか？」と声を出した。おじさんは軽く頷いたあと、何も言わずに店の出口に向かう。アタシはすぐにお礼を言わなきゃいけないのに言葉が出ず、おじさんが店を出る間際に、ありがとうございます、と早口で言った。

オレンジ色のチューブの蓋をとり、クリームを少し出してみる。それは、マンゴーやパパイヤやパイナップルを混ぜたような香りで、アタシは自分の育った街の匂いを思い出した。

白いクリームを少し出して掌に塗ると、ヒリヒリとした痛みが走った。アタシの手は小さな傷が沢山あって、汚かった。爪の周りは皮がめくれている。今まで気が付かなかった。

そのクリームは、アタシが子どもの頃から通っていた市場の青果店の匂いと、ママのワンピースから仄かに漂う、甘ったるい香水の匂いを思い出させる。

目がくらんだ。次第に目頭が熱くなり、鼻の奥がつんとする。

どうしてこうなるんだろう？

「セブンスターの１０番ちょうだい。」

怪訝なそうな目でこちらを見るお客にそう言われ、アタシは我に返って店員に戻る。

「はい！ありがとうございます。」

強い暖房が効いた店内でも、お客が店を出入りすると寒風が入る。冷たい空気がアタシの頬を撫でる。あの街ではそんな夜は訪れなかった。生ぬるい夜風が、バイクの排気ガスをのせて肌にまとわりつく感覚が唐突に甦る。その空気を吸いたくて、また視界が滲む。

明日、焼き芋おじさんに会ったら、どんな風にお礼を伝えたらいいのだろう。

掌から漂う果実の香りに包まれながら、そればかりを考え続けた。