🌟short story writing📚💻📝

気ままに短編小説を書いています。

金曜日のレインツリー

金曜日の「トナカイの家」は、いつもより賑やかだ。

ここは、昔ながらの商店街の一角にある酒場街。昭和感たっぷりのド派手な電飾で、「ボンボンセンター」と表記されているネオンをくぐると袋小路があり、小さな飲み屋が軒を連ねている。袋小路の一番奥にあるワイン酒場が「トナカイの家」で、僕の行きつけの店だ。

 


19時30分を過ぎた時点で、僕の隣のカウンター席以外はすべて埋まり、週末を迎える人達の開放感が店中に溢れている。僕は小説を片手に、カリフォルニア産ピノ・ノワールのグラスワインと生ハムをつまんでいた。初めてこの店を訪れたのはちょうど一年前。緊張しながらこの店の扉を開けた時は、やたら店の中をきょろきょろ見回していたっけ。何を注文していいのか分からず、とりあえず、目の前に置かれていたキッシュを食べて、その美味しさに舌鼓を打ったことを鮮明に覚えている。今では、この店は僕にとって第二のリビングのような空間となり、小説を読みながらリラックスして過ごせる場所だ。

 


店の喧騒に埋もれながらも小説の世界に没頭している時、僕の隣りの空いた席に女性客が座った。そして、カウンターの正面に陳列されている数本のワインボトルを眺め続けている。僕は再び小説の文字を追いかけた。

「あの、棚のちょうど真ん中にある、メルローの赤。それと鴨肉のコンフィください。」

隣りからその台詞が聞こえた時、僕は思わず彼女を見てしまう。一人でボトル一本?

マスターがスマートな手つきでワインボトルを開け、彼女の横にボトルとグラスを置いた。

彼女はグラスの半分くらいワインを注ぎ、ゆっくりと香りを嗅いでから口を付けた。やや丸顔のショートボブで、人懐っこそうな垂れ目の彼女は、僕よりやや年上だろうか。見た目だけでは、とても一本のワインボトルを飲むような酒豪に見えない。横目で彼女を見つつ小説を読もうとするが、彼女のことが気になって内容がうまく入ってこない。彼女はハイピッチでグラスを口に運ぶ。ちらちらと見る限り、顔色は全く変わっていない。賑やかな店の中、僕は酒豪の彼女との間に変な緊張感を覚えた。

 


「レインツリー…」

彼女の口から、囁くような言葉が漏れた。僕が読んでいる小説「レインツリーの国」のカバーを見たのだろう。その声は、僕に声をかけたというより呟きに近い感じで、どう返答していいか分からなかった。けれど、僕なりに頭のネジを巻いた。

「あ、これ。有川浩の『レインツリーの国』という小説で。すごく読みやすいです。僕、有川さんの作品はスラスラ読めるんです。」

そう言ってから、自分の話を一方的にしてしまったことに恥ずかしくなる。言葉を切り、彼女の返答を待った。

彼女は、垂れ目をくりっと見開きながら、本のカバーを見つめたままだ。

「レインツリーって、確か、『この~木、なんの木、気になる気になる…』の木だよ。」

彼女は耳に馴染んだあの歌を口ずさんだ。

「え、あのCMの木?」

「そう。あのCM。正式名称はアメリネムノキ、だったと思う。」

大抵の日本人が知っている、あの大きな木。この小説ではほとんどレインツリーについての記述が無い。聴覚障害を持つ主人公の女性が、「レインツリーの国」という名称のブログを持っており、そのブログに訪問した一人の男性と恋仲になる、というストーリーだ。彼女からレインツリーの正体を聞かされ、驚いた。

彼女は、遠い場所に想いを馳せるように呟く。

「あのCMの場所、ハワイだよね。一度あそこに行ってみたいなぁ。あの大きな木を生で見てみたい。」

「僕も、あの木を見たいです。なんだか、気持ちよさそうに枝を伸ばしていますよね。見ていると、身体に息吹を与えてくれそうです。」

「息吹。ほんとにそんな感じだね。私もあの木に触れてみたい。そして、木の下でゴロンって寝そべりたい…。」

「それ、最高の時間ですよね。」

見ず知らずの女性と肩を並べ、二人で同じ風景を想像する。それだけで、ふんわりと、心地良い気持ちになる。彼女は微笑みながら、ワインボトルを持ち、僕の方を向いた。

「良ければ、少し、飲みませんか?」

「え、いいんですか?」

「うん。一緒に飲んでくれる人がいると嬉しいし、一人でワインボトル一本は明らかに飲み過ぎだし。」

彼女は目を一層細くしながら笑う。

「確かに。では、お言葉に甘えて。いただきます。」

僕もつられて笑う。彼女は僕のグラスにワインを注ぎ、そして、お互いのグラスを軽く合わせた。

「レインツリーに乾杯。」

彼女は口ずさむように言った。

広大な公園にそびえ立つ、一本の木。僕は、その大きな幹に寄り添いながら、隣りにいる彼女の柔らかい手をそっと握る。その手は温かくて、僕の手をぎゅっと握り返してくれる。二人の間に爽やかな風が通り抜けて、心と体が解放されていく。みずみずしい芝生の上に、二人で寝そべると、風の心地良さと、彼女の身体の柔らかさを感じて、幸せなまどろみが訪れる…。

 


なにを勝手に想像しているんだろう。僕はだいぶ酔ってきたのかもしれない。水を少し口に含み、頭を冷やした。

彼女との会話が途切れ、沈黙が続く。「レインツリーの国」について、話をしようかと思った。けれど、本に興味が無い人だったらどうしよう、などと考え始めたら話しかけるきっけかを掴めなくなった。僕は再び小説に目を通し、彼女は早いピッチでワインを飲む。彼女は鴨肉のコンフィを口に含むと、軽く目を瞑り、頷くような仕草を見せる。料理の美味しさを感じる為に、意識を集中させているのだろか。彼女のとろんとした目が可愛らしくて、僕にも温かいオーラが伝わる。

やがて、ワインボトルが空になり彼女は会計を依頼した。もう、帰っちゃうのか…。

彼女は頬を紅く上気させ、僕に、声をかけた。

「お先に失礼します。」

にっこりとほほ笑みを向けてくれる。

「ワイン、有難うございます。美味しかったです。あの…この小説に書かれているんですけれど、レインツリーには花言葉があって。」

僕は、あと少しだけ彼女と会話がしたかった。

歓喜。それが花言葉なんです。」

彼女は僕をじっと見つめた。

「素敵な花言葉。レインツリーを想像するだけで、ハッピーなことが起きそう。」

彼女はそう言い、僕に優しい視線を送りながら、木の扉を開けて店を出た。

僕は、彼女に注いでもらった赤ワインを口に含む。それは、時間と共に香りが広がり、よりまろやかになって舌の上を流れる。

心のどこかで、彼女とレインツリーの話をしながらもう一軒違う店に行くことを考えていた。それが駄目なら、連絡先を聞こうか、と。

だけど…。今夜はこれで良かったのだ、一期一会でも、心地良く酔いながら、愉しい時間を過ごせた。

 


「ハワイ、いいですよね。」

マスターがおもむろに口を開いた。

「うん、ハワイに行きたいです。日本人にとって、あの島は楽園の象徴ですよね。」

「ノ―プランで、のんびり過ごしたいなぁ。気まぐれに砂浜を散歩したり、海で泳いだり。」

「そういう旅、いつかしてみたいですよね。」

マスターと、ハワイの海を想像するのも悪くない。ふっと肩の力が抜けた。

僕は、週末の夜にささやかな歓びに出会えたことが嬉しかった。こんな夜が、これからも僕の身にふりかかるといいな。欲を言えば、もう少し女性の気を引けるような台詞を吐くことが出来るといいな…そんなことを思いながら、彼女が空けたワインボトルのラベルをぼんやりと見つめた。