覗き見

閉館間際の温室は、あまり人がいない。

植物園内に古い温室がある。透明のガラスの壁で作られた温室に入ると、生ぬるい空気に包まれる。私はヤシの木やブーゲンビリアやサボテンやらをぼんやりと見渡しながら室内を散策する。ここの植物たちはいつも同じ表情で迎えてくれる。艶やかな緑に、おおらかに開く花弁。その光景を目にすると、張りつめた神経が解されていく。私は温室の隅のほうに行き、亜熱帯植物が入り乱れた場所に配置されている物置の前に立つ。物置は存在を消しているかのようにひっそりと置かれている。私は注意深く周りを見渡し、誰もいないことを確認すると、素早い動きで物置の中に入った。そして、音がしないよう慎重に扉を閉める。狭い物置の中は、埃と、香草を据えたような匂いが充満している。足を動かすとぎしぎしと不穏な音が漏れる。なにもない物置の中で目を瞑り、深呼吸をした。やがて、扉をほんの少しだけ開ける。闇に差し込む一筋の光。縦長の狭い視界には緑の園が広がっている。天井から差し込む陽に照らされた緑は鮮やかだ。植物の下のほうに目を向けると、岩のようにごつごつとした根が縦横に蔓延っている。私はその光景を丹念に眺めたあと、しゃがみ込む。

あぁ。体中の糸が解れていく——。

こんな場所で、こんな姿をしている私を、誰が想像できるだろう。

植物園閉園のアナウンスが流れるまで、狭い闇の中で膝を折り曲げながら佇んでいた。

私の祖母の家の庭に、蔵があった。

中は三畳くらいの狭い空間で、古い書物や火鉢や達磨や将棋板などが無造作に投げ込まれていた。

私は物心がついた頃から、そこへ行くことが好きだった。

真っ暗な空間。ひんやりとした空気。埃の匂い。異世界に紛れ込んだようだ。扉の隙間から洩れる光を見ながら何時間も過ごした。そんな私を周りの大人たちは「風変わりな子ども」として見るが、特に注意を払わなかった。

蔵と同じような暗さと狭さを保つ空間は、それほど世間にない。

旅館の押し入れ、体育館の舞台袖のカーテンの中、教室の掃除道具入れ。

私は暗くて狭い場所を見つけては、こっそり入り込み、誰にもバレないように自分を解放していた。

「閉所恐怖所」という言葉は一般的に認められているが、その逆を聞いたことはない。

私は自分の癖を、誰にも話したことがない。話したところで、理解されないと思うからだ。私自身、何故こんな癖を持って生まれたのだろうと疑問に思う。どれだけ考えても答えが出ない。ただ、暗くて狭い場所が「好き」なのだ。

最近の私は温室内の物置の中を最も気に入っている。暗闇と植物の世界。「明と暗」のコントラストが鮮やかで、たまらなく好きだ。秘密の楽園を見つけ出した。

真夏の温室は一段と人気が少なくなる。温室内は常に28℃前後に保たれているから、外気よりかなり涼しい。しかし、猛暑のなか、わざわざ「温」という文字がつく場所へ行きたがる人はそんなにいない。

私は誰もいない温室内を横切る。そして物置の中に入り、ハンドタオルで汗を拭う。物置の中は湿気が籠っていて、とめどなく汗が流れだす。ペットボトルのお茶を口に含んで、体を落ち着かせた。そして、いつもと同じように扉をほんの少し開けて、緑の園を見た。

いつもと変わらない風景……そう思った矢先、一人の男の姿が目に入った。

その人は、ヤシの木の幹からひょっこりと現れ、ちょうど私の正面にあたる位置に立つ。

寝癖がついたようなボサボサの髪。白のＴシャツにジーンズといったラフなスタイルだ。遠目から見ても、顔にハリが無いことが分かる。年齢は中年以上だろうか。彼は、真っ直ぐにこちらを見る。その視線は、明らかに私の姿を捉えているようにみえる。

まさか。物置の扉の隙間はほんの僅かだから、私の存在が分かるはずがない。

気のせいだろう。しかし、男の視線は私から離れない。

バレたか……。心臓が激しく脈を打つ。私は目を逸らし、音をたてないようにその場にしゃがみ、顔を伏せた。どうして私の姿が分かったのだろう。物置に入るときから見ていたのだろうか。

しばらくして正面をみたら。男はいなくなっていた。私は慎重に扉を開け、辺りを見渡す。全身の毛穴から汗が噴き出した。やがて、その汗が冷えて寒気が襲ってきた。

その夜、不思議な夢をみた。

温室の物置の中がやや広くなり、小部屋となっている。私はそこにいた。真っ暗だが、部屋の中央に置かれた蝋燭の灯が揺らめいていた。か細い灯をたよりに、辺りを見回してみる。壁には、動物の顔だけの絵が飾られていた。絵？じっくりとみると、本物の動物の顔で、逆立った毛や、干からびた鼻先や、目やにのついた瞳が眼前に迫った。私は小さく悲鳴を上げる。それらは、動物のはく製だった。鹿、熊、ライオン、猪……。あらゆる猛獣の顔が等間隔に並んでいた。今にも噛みついてきそうな生気を宿した顔をしている。私の目の前に口を半開きにした熊がいた。じっと見ていると熊の瞳はゆっくりと瞬きを繰り返し、口から涎を流した。隣りのライオンは鼻をひくひくと動かしている。何かの合図があったように、動物たちが一斉に顔を動かし始めた。私は何故か恐怖を感じなかった。彼らを見るうちに愉快な気持ちが芽生えてきたのだ。

私は狭い小部屋の中で奇妙なステップを踏んだ。手足が勝手に動く。動物たちはヒイヒイと呻きながら、舌をだらしなく出している。目はとろんとして陶酔したような顔つきだ。楽しくて踊りをやめることができない。くるくると体を回転するうちに、蝋燭を倒してしまった。一瞬のうちに闇に覆われ、唐突に夢の世界は終わった。

それから数日後、私は温室の物置を訪れた。

物置の扉を開けると、あの日、私を見ていた男が中に入っていた。

思わず息をのむ。驚くが、男が物置にいるという可能性も頭の片隅に入れていた。

「はやくおいでよ。」大儀そうな声で男が囁く。

私は素早く物置の中に入り、扉を閉める。

「待ってたよ。」男の息は煙草臭かった。

「ずっと仲間に入れてほしかったんだ。」

私は何も言えなかった。男はポケットからライターを取り出し、火を点ける。

男の鼻の穴は膨らみ、目は大きく見開いている。口角は上がっていた。

夢の中にでてきた動物たちと同じ表情だ。

私は、物置に入ることを拒否できたのに、自ら踏み込んだのだ。

身体は石のように動かない。

「時々、こういうこと、したくなるよね。」

ぶつ切りの、ぎこちない喋り方で男が呟く。

私は、この世界を誰かと共有したかったのだろうか。

いや。単純に、私のことを誰かに知ってもらいたかったのかもしれない。

男もそうだったかもしれない。

私たちは誰に言えない秘密を共有している。まるで共犯者だ。

いつもわずかに開ける扉を、今日は閉めたままだ。男がライターの火を消すと、完璧な闇が二人を包む。私たちを覗く人は、この世界にいない。