さくらさく

ふわふわと酔った足取りで家路を辿りながら、雨上がりの空気を吸う。もわっとした生暖かい空気は、土と雨の匂いを含んでいて春の夜気を感じさせる。私は、小さな児童公園の前を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。園内の奥のほうに佇んでいる大きな木に目を留める。その木は、木製のベンチの上を覆うようにそびえ立ち、枝にはちらほらと咲くピンクの花弁をつけていた。桜だ。もう、咲いているんだ。私は今年初めて開花した桜を発見して、それを間近で見たくなった。その木は、丸みを帯びた蕾を沢山つけていて、鈍い点滅を繰り返す街灯の下では、蕾全体が赤く染まっていることがわかる。ところどころに咲いた花弁は、地面を向きながら控えめに開き、他の蕾が開くことを待ちあぐねているかのようだ。

私はベンチに座り、夜の空気を吸い込む。微かに漂う桜の甘い香りが心地いい。

ベンチの目の前には古びたブランコがあった。座る部分の木の板は朽ちていて、ペンキは剥がれ落ちている。ブランコを支える鎖は赤黒く変色していた。ブランコかぁ。前に遊んだのはいつだったろう。私はベンチから立ち上がり、ブランコに触れた。錆びついた鎖を持つとひんやりとする。スニーカーをゆっくりと木の板に乗せ、ブランコの上に慎重に乗ると、板はぎしぎしと軋んだ。私は軽く地面を蹴ると、ブランコは振り子のように動く。少しずつ加速していくと、身体が風の一部になったかのように軽く感じた。振り子はどんどん大きくなり、夜空が私に迫ってくる。すごく気持ちがいい。ある程度勢いがつくと、何もしなくても勝手にブランコは動く。ブランコに乗りながら桜の木を眺め、想いを巡らす。あの木は、あの場所でずっと根を下ろし、生き続けている。木が身に付ける花は、一年のうちのほんの短い期間に開き、すぐに舞い落ちる。そして一年後に新たな花を咲かす。ずっとその繰り返しだ。私は目を瞑りながらブランコの動きに身を任せた。

「散って、また、花開くか。」

私は言葉にならないような声で呟いた。昨日も今日も、バイト先の居酒屋で床とテーブルを磨き続けた自分を振り返る。床は、掃除をする私の姿が鏡のように映っていた。誰もいないホールでただ一人、軽快な有線放送が虚しく響きわたる。

「あの。申し訳ないけれど、今日はもうあがってもらっていいかな？」

疲れが滲んだ顔でそう言う店長に対し、私は、はい、と応えて速やかにタイムカードを押した。職場から帰る途中、真っ直ぐに家へ向かう気分になれなくて、一人で飲みに行った。本当はこんなことをしている場合じゃない。アルバイト生活を辞め、本腰を入れて就職活動をしなければ…そう思っていた矢先に、不景気の波が押し寄せてきた。出口の見えないトンネルに入ったかのように、先が見えない。こんな世の中、桜が散るようにあっという間に過ぎてしまえばいいのに。

やがて、ベンチに一人の男性が座り、煙草を吸い始めた。灰色の作業服に、土がついた長靴を履いている。頭は白髪が目立っていた。彼はぼんやりとした視線でこちらを見ている。私は構わずにブランコを漕ぎ続けた。彼の吐く煙が細くたなびき、咲いた花弁の周りを漂う。彼はブランコを漕ぐ私を見ながら、口元を緩めている。それは、微笑んでいるのか、嘲笑しているのか分からない。どちらでもいいや。どんなことが起きても、季節は移ろうし、桜は咲く。ほろ酔いでブランコを漕ぎながら桜を眺めるって最高に気持ちがいいから、しばらく風に乗っていよう。男性は気怠そうに煙を吐き続ける。煙が蕾の合間を抜け、やがて枝の端のほうまでいくと、夜気に吸い込まれるかのように霞んでしまう。その光景を見ていたら、不意に瞼が熱くなった。私は顔をぐんと上げ、夜空を仰いだ。