🌟short story writing📚💻📝

気ままに短編小説を書いています。

ボンボンセンター(前編)

湿り気を帯びた空気が漂う、蒸し暑い夜だった。職場の部署内での送迎会が終わり、僕は二次会を断って早々と会場から一人離れた。何となく真っ直ぐ帰る気分になれなくて、最寄りの地下鉄の入り口を通り過ぎて、アーケードが連なる商店街を歩く。どの店もシャッターは閉じていて、静かな通りになっていた。誰かが飲み捨てた空き缶がカラカラと音を立てながら狭い路地に転がっていく。アーケードの沿いには、更に奥まった路地が枝分かれするように伸びていて、蜂の巣を連想させた。僕はぼんやりとその空き缶を目で追う。空き缶は、路地の一角にある古びたネオンを支える柱に当たり、動きを止めた。そのネオンは、赤と青の古めかしい電飾が光っていた。ところどころ点滅を繰り返すネオンは、「ボンボンセンター」と書いてある。ボンボンセンター?ゲームセンターがあるのだろうか。僕は気になって、ネオンの下を通り狭い路地へ入った。


そこには何軒もの飲み屋が長屋風に連なり、小さな看板だけが店先に出ている。狭い路地は袋小路になっていて、通り抜けは出来なかった。遠慮がちに店の様子を外から覗くと、どこの店もカウンターだけで、数人のお客が飲んでいる。店内の照明は、どの店も仄かに灯る程度で、はっきりと見えない。僕はこういう雰囲気の場所に足を踏み入れたことが無いから、次第に鼓動が高まっていく。きっと、これは昭和という雰囲気なんだろうな。僕は平成生まれだから、昭和がどういう時代か分からないけれど何となく想像出来る。綺麗じゃなくて、ちょっとディープな酒場街。普段なら、臆病な僕はこういう店に一人で入ることが出来ない。だけど、今日の送迎会は肩が凝ったし、あまり食事が喉に通らなかった。部署内では僕が一番下っ端だから、ひたすら上司と先輩の話の聞き役に徹しなければならない。小腹も空いているし、なんだか解放されたかった。

よし、この中のどこかに入ろう。そう意気込んだものの、僕は袋小路の中で右往左往してしまう。うろうろし過ぎて、ボンボンセンターの常連客らしきカップルが不審な目で僕を見ながら通り過ぎた。失敗してもいい。どこかに入ろう。僕は、袋小路の一番奥にある、「がぶ飲みワイン トナカイの家」の前に立ち、思い切って重い木の扉を開けた。


カランと鐘の音が鳴る扉を開けると、カウンターに10席ほどの、狭くて細長い店内が視界に広がった。オレンジの色味を帯びた照明は、どこか懐かしい雰囲気で店内を照らしている。

「いらっしゃいませ」

三十代半ばくらいの、温和な雰囲気のマスターが声をかけてくれた。僕がしばらく入口付近で立っていると、「お好きな席へどうぞ」と誘導してくれた。

カウンター席には、既に二人のお客が座っていた。一人は初老の男性で、白身魚の刺身とマンゴーを盛り合わせた料理と共にビールを呑んでいる。もう一人の中年男性は、白ワインのグラスを呑んでいる。僕は、僕を含めて三人の客が等間隔のスペースが出来るにように、席を選んで座った。カウンター席には、小さなアンティーク風のおもちゃが幾つか置かれていた。親指サイズの、毛糸を編んで作った人形や、ワインボトルのコルクに棒を差して動物に見立てたものが無秩序に並んでいて、目を楽しませてくれる。

「何か飲まれますか?」

マスターに言われ、ハッとした。何を飲むか考えていなかった。メニューを開きかけて、閉じる。せっかくなので、この店がウリにしているものにしよう。

「えっと…。ハウスワインの赤をグラスで。それと、すみません、この料理なんですか?」

僕は目の前のカウンターに置かれた大皿の上の、パイ生地にプリンを乗せたような料理に視線を注いだ。

「キッシュです。先ほど出来あがりました。パイ生地の上には、具沢山のオムレツの様なものが乗っています。」

「じゃ、それをください。」

黒板のおススメメニューを見ても、僕は普段から飲み屋に行かないから、見慣れない単語ばかりでよく分からない。マスターにいちいち聞くのが恥ずかしくて、僕は目の前の料理を頼んだ。だけど、このキッシュという料理、見るからに美味しそうなのだ。鼻を近づけるとバターとチーズの香りがする。オムレツはふんわりと盛り上がり、目を凝らすと湯気が出ていた。僕は改めて店内を見回すと、入口の扉のすぐ横に、トナカイの顔の剥製が掛けられていることに気付いた。それは大きな黒い目をしたトナカイで、立派な角を有している。まるでこの店の番人をしているかのように瞳に存在感がある。触ると温もりが伝わりそうなくらい、活き活きとした表情だ。

「トナカイの剥製は、その家の守り神になるという言い伝えが、アイスランドにあって…。」

僕がじっとトナカイを見ていたら、マスターがおもむろに口を開いた。

「昔、アイスランドへ旅に行きました。そこでは、どんな民家や商店にも、トナカイが飾られていて。トナカイの表情や毛並みが、場所によって千差万別なんです。家の個性が出ていると感じました。それで、僕も真似てみました。」

「それで、『トナカイの家』なんですね。」

僕は微笑みながら言った。

「はい、安直だけど、それしか浮かばなかったんです。」

マスターが笑うと目尻が下がり、一層温和な表情になる。照れ笑いをしながら、グラスワインを慎重な手つきでカウンターに置いた。僕は思わず目を見張った。グラスワインに、表面張力並みに、ぎりぎりまでたっぷり注がれていたのだから。まるで日本酒の升酒みたいだ。僕はしばしそのグラスに釘づけになった。

「がぶ飲みは、この店の個性のひとつなんです。」

マスターの声が悪戯っぽく聞こえた。

僕は緊張気味に、グラスに口付けた。僕は普段からそんなにお酒は飲まない。飲み会の席で、せいぜいビールかチューハイを付き合い程度で飲むくらいだ。ワインは、どちらかと言えばあまり得意な味ではないが、今夜は冒険心で注文した。少しずつ、舐めるようにワインを口に含む。ぶどうの渋みを微かに感じるが、香りがとてもいい。なんというか、果実と土と、コルクの香りを混ぜたような感じだ。想像以上に飲みやすいワインだった。これだったら、ちびちびと飲み進められそうだ。ワインをカウンターに置く際、肘に違和感ンを覚えた。ゴツゴツとしている。そのカウンターの形態を、今さら気付いてハッとした。カウンター一面に、カラフルで小さな正方形のタイルが敷き詰められていた。それは、真新しいものではなくて、年季の入った石が帯びる、鈍い光沢が印象的だ。カウンターそのものが、アンティークのように存在している。大人げないと思いつつ、僕はこの店に入ってから視線をきょろきょろと動かし続けている。この空間自体が、僕にとって未知の世界だ。

「兄ちゃん、ここ初めてなんだね。」

初老の男性に声をかけられた。

「そうなんです。飲み会の帰りに、たまたまここを見つけて。ボンボンセンター、という看板が気になって入ってきました。」

「そうかい。じゃあ、『ボンボンセンター』の由来も知らないね?」

僕は頷いた。男性は、ビールをゴクンと飲み、呼吸を整えてから口を開いた。