🌟short story writing📚💻📝

気ままに短編小説を書いています。

ヤンソンさんの誘惑

賑やかな商店街の路地裏に入ると、古い雑居ビルが軒を連ねている。そのビルの中には、飲食店やアクセサリー雑貨、衣料品店がひしめき合っている。私は、ネオンが灯るビルの片隅にある、小さなビストロの扉を開けた。久しぶりに感じる赤やオレンジの淡い照明やジャズの響きに触れ、ほっと息をつく。月に2日ほど足を運んでいた店だったが、この数ヶ月間、訪れていなかった。

「いらっしゃいませ。」

マスターの柔らかい声に迎えられた。

「ご無沙汰しています。」

私は微笑みながらそう応えた。

「お元気でしたか?」

「はい、何とか。仕事が忙しくて…。ようやく落ち着いた感じです。」

私は咄嗟に嘘をついた。

「よかったです。ゆっくりしていってくださいね。」

私は、誠実な面持ちで話すマスターを直視できなかった。

「はい。じゃあ、赤のデキャンタと、‘ヤンソンさん’をください。」

「かしこまりました。」

私は、「ヤンソンさん」の味を思い浮かべ、早くも口中に唾液が溜まる感覚を覚えた。

 


ヤンソンさん」の正しい料理名は「ヤンソンさんの誘惑」だ。初めて店のメニュー表を見た時、この名前を目にして驚いた。パスタ、マリネ、サラダ、ソテー、リゾット…。見慣れた単語が並ぶメニュー表の中に、一つだけ意味深な名前が載っている。しかも、名前の横には、「アンチョビとじゃがいものクリームグラタン」としか表記されていない。

なぜヤンソンさん?そもそもヤンソンさんってどういう人?誘惑って?

そんな疑問が次々と浮かんだ。私は料理名の由来をマスターに訊ねた。

19世紀のスウェーデンに、エリク=ヤンソンという宗教家が実在しており、彼は菜食主義者だった。そんな彼が、ふとしたきっかけでこのグラタンを口にしてしまい、その美味しさに惹かれて理性を忘れるほどパクパク食べてしまった、というエピソードから名づけられた。何ともユニークな話だ。それ以来、このグラタンはスウェーデンの伝統的な家庭料理として親しまれている。

私はマスターが運んできた熱々のグラタンを口に含み、赤ワインを飲んだ。

アンチョビの塩気とじゃがいもの素朴な甘味が絶妙に絡み合う。赤ワインを含むと、クリームのまろやかさが増して濃厚な味わいになった。久しぶりに食べる美味しさに、夢中になってスプーンを口に進めた。ジャガイモの深部に残るシャキシャキ感や、表面に降りかかっている、きつね色のパン粉の香ばしさが、グラタンにアクセントとなる美味しさを与えている。

 


ヤンソンさんも、この味の虜になったのだ。皆から神聖な存在として見られていたヤンソンさんだけど、彼も人間だから肉や魚を好きに違いない。私は、完璧なヤンソンさんより、自己嫌悪に陥りながらもグラタンをパクパク食べる彼のほうが好きだ。なんて、勝手な想像を膨らませる。私は、ワイングラスに映る自分の顔を見て溜息をついた。

自分の理想を追い求めることは大切だけど、その過程は苦しい。グラスを傾け、赤い液体の揺れをぼんやりと見つめながら、自分自身を振り返る。

 


私は鞄の中に入っている、A5サイズのノート取り出してパラパラとページを捲くった。これを手にするのも久しぶりだ。そこには、乱雑な文字や、緻密に整列された文字がぎっしりと無秩序に書き記されている。私はこれを「なんでもノート」と呼んでいる。

この「なんでもノート」に、私が創作する長編小説のモチーフとなりそうな事物の描写を書き記している。モチーフの断片を温め、デッサンする。次にそれを組み立てて、やや丁寧な文字で校正をしながら書く。仕上げに、ノートを見ながらパソコンに文章を入力するというステップを踏んでいる。私は、一年以上かけて創作した長編小説に自分の力を注ぎ込んだ。そして、完成した作品を大手出版社の新人賞に応募した。前回は一次選考を通過したのだ。今回は二次選考、もしくは最終選考まで残るかもしれない。そんな期待を信じて疑わなかった。結果は、一次選考どころか、箸にも棒にもかからなかった。私の作品は、誰からも評価されなかったのだ。

 


何故、あんなに自信が湧いたのだろう。全力を出して書きあげた小説が認められなかったと分かった途端、私のモノを書く意欲は、瞬く間に薄れてしまった。そして抜け殻のようになり、「なんでもノート」を開くことすら嫌気がさした。このビストロではいつもノートを開き、ペンを片手にワインを飲んでいた。小説のモチーフをかき集め、あれこれ想像を膨らませながらグラタンを食べる時間が大好きだった。店から遠のいていた理由は、落選の結果が分かってからのモチベーションの低下が発端だ。今、グラタンを噛みしめながら、冷静な気持ちで自分を振り返る。会社勤めをしながら「小説を書く」という自分に酔っていたのかもしれない。作品を認められたい。そして、賞を獲得し、少しでも有名になれたら…。冴えないOLの私は、皆の目にどう映るのだろう…。そんな自分を夢想していた。賞を獲ることが全てのように感じ、追いこんでいた自分が滑稽に思える。

 


隣りのテーブルを見ると、二人の若い男性客が向かい合って愉しそうに食事をしていた。一人は細身で、もう一人はがっちりとした体形だ。そして、二人とも黒とグレイを主体とした、モノトーンの服装をしている。私は、二人が身に付けているアクセサリーに視線を止めた。細身の男性は、黒いタートルネックのセーターの上から、鮮やかなターコイズブルーのネックレスを身に付けている。もう一人は、左手の中指にシルバー製のゴツゴツとした大きめの指輪をはめていて、そこにもターコイズブルーが光っていた。二人が身に付けている青が鮮やかで、黒い服装の上で、美しい光彩を放っていた。私は手元にある「なんでもノート」を開き、おもむろに二人が身に付けるターコイズブルーの描写を書き始めた。

『テーブルランプの仄かな光に照らされた、ふたつの青い石。石が放つ輝きが、それを身に付ける二人の間の空気を一層濃密にする…』

思いつくままにペンを走らせた。それに伴って、自然と食欲が増す。

 


「すみません。仔豚のパテと、バケットをください。」

私はマスターに追加の注文をした。

「今日はよく食べますね。」

「はい。今日はちょっとだけ自分に甘い日。」

「たまにはいいですよ、そういうの。僕はいつも自分に甘いから、説得力ないけれど。」

そんな会話が、絡まった心の糸を解していく。

 


趣味も仕事も恋愛も、様々なスタイルがある。最初から「カタチ」なんてないのだ。あらゆる制約を課してしまうのは、自分なのだ。

私はパテを噛みしめながら、豚の旨味を感じた。ああ、お肉って美味しい…。隣りのテーブルからは二人の軽やかな笑い声が聞こえてくる。私も、誰かと笑みを交わしながらワインが飲みたいな。そんな自分の正直な気持ちも、さらさらとノートの淵に書き綴る。

賞が目当てじゃない。私は書くことが好きなのだ。ワイングラスを片手に、心地良く酔いが回ってきた。

ヤンソンさんの誘惑」。このタイトルでひとつのストーリーが生まれそうだ。生真面目で不器用なヤンソンさん。様々な殻を破っていく、彼の変貌の物語。私は想像の世界に浸り、ペンを走らせた。