🌟short story writing📚💻📝

気ままに短編小説を書いています。

ひとつまみの塩

街路樹が、歩道に長い影を作る夕暮れ時。僕はセントラルパーク沿いにある白い外壁のビルの三階へ向かった。エレベーターを降りてすぐに右に曲がると、「喫茶それいゆ」の重厚な木の扉がある。ゆっくりと開けると、店内にお客はなく、店主の透子さんが一人、カウンター内で食器を磨いていた。

「いらっしゃいませ。」

透子さんは僕の姿を見ると、目尻を下げ、少し首を傾けながら微笑む。僕は店内を見回すふりをしながら、窓際にある大きなテーブル席へ真っ直ぐ向かう。閉店の三十分くらい前は大体お客が無く、僕は一人で贅沢にこの場所で休息するのだ。

僕が席につくと、透子さんは江戸切子風の模様が入ったグラスに水を注ぎ、テーブルの上に静かに置いた。

「橘さん、今日もどこかで取材だったんですか?」

「はい。今さらだけど、タピオカ特集の取材で大須界隈を回ってきました。」

「そうなんですね、お疲れ様です。大須はいつ行っても賑やかな場所ですよね。ここで息抜きしてくださいね。」

「このあと会社に戻り、原稿作成です。今日は朝から動きっぱなしだったから、足が棒になりました。ブレンドとプリンをください。」

透子さんと何気ない会話をしたあと、ぼんやりと窓からの景色を眺める。空は、オレンジと朱色のグラデーションに染まり、東の方角に星がきらりと瞬いた。街路樹が色づく季節が訪れると、陽の落ちる早さが一気に加速するような気がする。

 


 僕が初めてこの店に訪れたのは半年前。僕は地域情報誌のライターとして、「名古屋の純喫茶特集」の取材依頼の為に「喫茶それいゆ」の扉を開けた。もちろん、最初は電話でアポイントを取ろうとしたが、頑なに取材拒否をされた。そして店の扉を開き、直談判したのだ。透子さんは、深く頭を下げながら、でも芯の強い声で訴えた。

「それいゆは、このビルに移転してリニューアルオープンしたばかりですし、軌道に乗っていません。その状態で誌面に載せることに、抵抗を感じるんです。」

「誌面に乗せることで、軌道に乗るお店は多いんですよ。認知度を広める良い機会だと思います。」

「そうかもしれませんが。最初は焦らず、この空間を熟成させたいんです。せっかくのお話ですが…すみません。」

そして僕は折れた。僕が取材をしたい理由には、純粋にリニューアルされた「喫茶それいゆ」に惹かれていた。大きな窓から見える、セントラルパークの緑。空間に配置された数々のアンティーク。扉にはめ込まれた太陽のステンドグラス。この空間はひとつの小宇宙のように存在し、都会の喧騒を忘れることが出来る。そして、店主の透子さんが醸し出す優しい雰囲気が店を包んでいる。花柄や水玉やストライプ柄などの、レトロ風の木綿のワンピースに、黒いサロンを腰に巻いている透子さん。会話をすると、ホッとするような安心感を与えてくれる。コーヒーをハンドドリップで抽出する時は真剣な眼差しでフィルターを見つめ、常に凛とした佇まいでカウンター内を動く。柔らかさと芯の強さを併せ持つ女性だ。取材を拒否されても僕はこの店のファンになり、通い続けている。

 


「お待たせいたしました。」

透子さんが銀のお盆にコーヒーとプリンを載せて運んできた。それいゆのコーヒーとプリンの味わいは、僕にとって至福の時間を提供してくれる。オーダーが入ってからミルで挽いた豆は浅煎りで、後味はすっきりしている。ブラックで飲みたい味だ。そしてここのプリンは、僕は今まで食べてきたプリンの中で一番美味しいと思う。透明のガラスに盛られたプリンは黄金色で、スプーンですくっても形が崩れない、弾力の強さを持つ。口に含むと、卵とバニラとミルクの味を、それぞれしっかりと味わうことができる。今日はプリンの横に、見慣れない小皿が添えられていた。中には、細かくて白い顆粒のようなものが入っている。

「それ、甘塩なんです。」

僕が質問する前に、透子さんは先に言葉を発した。

「甘塩?」

「はい、プリンにかけていただくものです。ほんのひとつまみ。これが意外に合うんですよ。」

塩キャラメルや塩ソフトクリームは出回っているが、「プリンに塩をかける」という発想は斬新だ。僕は、ひとつまみの塩を遠慮がちにプリンにかけてみる。その部分をスプーンですくい、口に運んだ。すると、プリンのコクがぐっと引き出されたような、濃厚な甘さが口に広がった。塩の主張的なしょっぱさは、魔法のように消えてしまった。塩は、砂糖の甘さに奥行きを出すような作用をもたらしたのか。

「これ、美味しいです。コクが増したように感じます。」

「美味しく召し上がってもらえて嬉しいです。実は、小倉トーストを食べた時に着想したんです。餡の甘さとマーガリンの塩気で、飽きない味が生まれる。試しに、うちのプリンでやってみたらどうなんだろうって。柔らかな味わいの甘塩でやってみたら当たりでした。」

「ほんとに美味しいです。ひとつまみの塩でこんなに美味しくなるなんて発見ですね。これ、メニュー化するといいと思いますよ。」

僕はつい息込んでしまった。

「ありがとうございます。今は、更に甘塩に合うようなプリンの製法を試行錯誤しています。今日は、実験台にしてしまい、すみません。」

「そんな、僕なんていくらでも実験台に使ってください。」

「塩は、疲労回復のミネラルを含んでいます。橘さん、ややお疲れの表情だったので、このプリンを召し上がっていただいて、今夜のお仕事の力になるといいなって…勝手なことしてしまいました。」

透子さんは一層目尻を下げて、ぺこりと頭を下げた。僕は、透子さんから少し視線をずらしながらお礼を言った。なんだか、透子さんの目を真っ直ぐ見ることが出来なかった。

 


その後、僕は塩プリンとコーヒーを味わいながら、今日書いた取材メモに目を通しつつ、横目でカウンター内の透子さんの姿を追った。陽は沈みかけ、僕の真横の窓ガラスに、店内の風景が明瞭に映し出された。そこに、グラス類を布で丁寧に拭く透子さんの姿が映る。手を休めず、ひとつひとつのグラスの透明度をチェックするかのように、真剣な眼差しで磨いている。僕は、その光景をずっと眺めていたかった。窓ガラスを見ていれば、透子さんにばれずに見つめることができる。しかし、僕の視線に気付いたのか、夕闇に染まる窓ガラスの中で透子さんと視線が交わった。僕は咄嗟に俯く。コーヒーの最後の一滴を口に含み、席を立った。

 


「ごちそうさまでした。塩プリン、とても美味しかったです。ありがとうございます。」

「喜んでもらえて嬉しいです。また食べに来てくださいね。」

「塩プリンはリピーターが増えると思います。楽しみにしています。」

差し障りのない会話をして、会計を済ませる。店を出て、太陽のステンドグラスがはめこまれた重い木の扉が閉まる前の、ほんの僅かな隙間からでも透子さんの微笑みがこちらに向けられているのが分かる。僕はエレベーターに乗るまで、背中に彼女の眼差しを感じた。ビルの外へ出ると、陽は落ちて街灯に灯りが付いていた。僕は外からそれいゆの大きな窓を眺めたあと、足早に会社へ向かう。さて、これから一仕事だ。極上のプリンを食べて身体にエンジンがかかった。コクがあり、優しい味わいのなかに含まれる控えめな塩気。透子さんを表したようなプリンの後味を保ちながら、群青色の空を仰いだ。