その公園の中央に位置する噴水の周囲は、円形の広場になっていて、いくつかのベンチが等間隔に置かれている。夕闇に染まる空の下。僕はベンチに座り、ギターの弦に指を絡める。週に二、三日くらいの頻度で、誰に聴かせるわけでもなく、音を空に放つこの時間が好きだ。僕の前を足早に通り過ぎる人が大半だけど、時には歩を止めて、聴いてくれる人もいる。僕は、噴水の水がサラサラと流れ落ちる音と、ヒマラヤスギの梢が揺れる音に囲まれ、思い思いにギターの音色を響かせる。そうすると、絡まった感情の糸が解れて行くのを感じる。僕はギターを弾きながら、視界の端にいつものシルエットを捉えた。僕の座るベンチの二つ隣り。ゆったりとしたニットのロングワンピースを着て、素足にハイヒールの女性。真っ直ぐな長い髪が横顔を隠し、表情が見えない。身体は細く、片手にいつも缶ビールを持っている。僕がギターを弾き始めると、彼女はどこかからやってきて、ベンチに座る。そして、ビールを飲みながら宙を見つめている。僕は彼女を意識し過ぎぬようにするが、いつもその姿を探してしまう。今日も来てくれた…。僕は、会話もしたことのない女性が、僕のギターを聴いてくれることに喜びを感じつつ、澄ました顔をして弦を震わせる。
空が重い鈍色に覆われる、肌寒い日の夕暮時。僕はビートルズの「ノルウェイの森」を奏でていた。なんとなく、この空の下で弾きたくなった。軽快な前奏を奏でながら、缶ビールの彼女をちらと見ると、彼女は長い髪を耳にかけ、初めて僕の方に視線を向けていた。その顔は青白く、口元はわずかに開いていた。やがて、彼女はリズムに合わせて肩を揺らし始める。缶ビールの彼女が、自発的に動く姿を見て、僕の鼓動が高まった。ギターの演奏に集中しながら耳をすませると、彼女のハミングが聞こえる。よほど「ノルウェイの森」が好きなのだろうか。僕は一層テンポよくメロディーを響かせた。僕は身体を動かしながら、北欧の凛とした寒い空気を想像した。
演奏が終わり、呼吸を整える。指先が、外気の冷たさと、血流の激しさの影響で、痒くなってきた。両掌に息を吹きかけている時、缶ビールの彼女はゆっくりと立ち上がり、僕の傍にやってきた。
「ノルウェイの森、好きなんです。」
彼女は、微笑みながら言った。
「ビートルズはよく聴くの?」
僕は訊ねた。
「ううん。この曲しか聴かない。」
「僕は、小説『ノルウェイの森』を読んでから、この曲を知り、弾くようになったんだ。あなたは、この曲のどこが好きなの?」
「うーん。なんていうか…。聴いているととても落ち着く。深い森の中へ飛んで行ける気がするの。周りは何もない、森林と湖しかない場所へ。」
彼女は、夢想するように呟く。
「へぇ…。そうなんだ。」
僕は彼女の瞳を見つめたけれど、その焦点は泳いでばかりだ。彼女の表情は、口角だけが上がり、感情が読み取れないお面のようだ。
「お酒はいつも飲んでいるの?」
「どうなんだろう。意識はしていないけれど、気がつくと手元にあるかなぁ。」
虚ろな目がいきなり泣きそうな形になり、彼女は綻んだ人形のような表情になった。僕は咄嗟に彼女の手首を掴む。あまりに細い手首は、力を入れると折れてしまいそうだ。ニットのワンピースの袖口をめくると、無数の生々しい傷跡が目に飛び込んできた。
「どうしたの?」
何事も無かったかのように、彼女は微笑む。
「なんだか、あなた、消えてしまいそう。」
「なんで?私はここにいるよ。温かなギターの音色が聴こえると、穴蔵から出てくる熊みたいに、ムクっと起き上がるの。」
そう言いながら、クスクスと笑う。僕は、唐突に目の奥が熱くなり、戸惑った。
「あったかいもの食べよう。」
「えー。もうご飯の時間?」
「あなたの顔を見ていたら、熱々の田楽が食べたくなった。」
「意味わかんない。」
僕は左肩にギター背負い、右手に彼女の手を繋いだ。そして、公園内の出店へ向かう。
「ねぇ。これってナンパ?」
「うん、そうだよ。」
「じゃあ、ご馳走してくれるのね。」
無邪気な声を出す彼女と肩を並べ、白い息を吐きながら、ザクザクと落ち葉を踏み鳴らす。彼女の、氷のように冷たい指先を、僕は包み込むように握る。もし、僕のギターが君の心に響いたのなら。君を深い森から連れ出したいと思った。暗くて寒いノルウェイの森じゃなく、陽が差し込む暖かなところへ。