🌟short story writing📚💻📝

気ままに短編小説を書いています。

春の気配

うっすらと靄に包まれた遊歩道を歩く。夜半に降った雨の影響で、朝の新宿御苑の樹木は露に濡れ、強い土の香りが漂う。湿り気を帯びた空気は、草木が芽吹くような春の気配を運んできた。しっとりとした柔らかい土を踏みしめながら、私は杉が立ち並ぶ雑木林へ足を運んだ。真っ直ぐに、空を射抜くように幹を伸ばす杉の木たち。その姿を真下から見上げると、自然と背筋が伸びる。森閑とした杉並木を抜けると、視界が開き、大きな広場へ出る。鈍色の空の下、私はゆったりとした呼吸で芝生の上を歩き、東屋を目指した。


その小さな東屋は日本庭園風の池に面していて、水面には、松の木や灯篭が映っている。私は休日に、自宅から持ってきたお弁当をこの東屋のベンチに広げ、早めのランチをとる事が好きだ。一人でお弁当を食べながらビールを飲んだり、小説を読んだり、悠々と泳ぐ鴨を眺めて過ごす。都会の喧騒が届かないこの公園は、私の心を解放してくれる場所だ。少し湿った木製のベンチに腰をかけ、鞄からお弁当とコンビニで買った缶ビールを取り出した時、視界の端に、小さなブーケを捉えた。私の向かい側のベンチの片隅に、ぽつりと置かれている。装飾のない東屋の中に忽然と現れたブーケは、水彩絵の具のようなふんわりとした色彩を空間に落とす。私は立ち上がり、ブーケの近くへ顔を寄せた。一輪のオレンジ色のガーベラを中心に、白とピンクがグラデーションになった薔薇が数輪、束ねられている。その周りを緑が縁取っている。可愛らしいコーラルピンクの包装紙で包まれた花々は凛としているから、この場所に置かれてそれほど時間は経過していないのだろう。花弁の表面には、まだ水滴が残っていた。遠慮がちにブーケを手に取ると、手元の下の方に、小さなメッセージカードが挿し込まれていた。そこには、丁寧な文字でメッセージが記されている。

「きみとここでランチがしたい」

私はしばらくその文字を見ながら、茫然と佇んでいた。頬が次第に熱くなっていくのが分かる。それが、自分に宛てられたメッセージかどうか定かではない。だけど、私がここに来ることを予期して誰かがこのブーケを置いていった可能性もある。思わず、東屋の周りを見渡したけれど、人の気配はない。知っている相手にブーケをプレゼントするならば、こんな風にベンチの上に置きっぱなしにしないだろう。私の胸の内にくすぐったい気持ちが湧きおこり、小さな東屋の中をぐるぐると歩きまわった。


興奮した気持ちを抑える為に缶ビールを一口飲み、喉を潤す。休日の昼前に、お弁当を食べながらビールを飲み、小説を読む耽る女に、心を寄せる人がいるのだろうか。あれこれ思考しながら、手作りの煮込みハンバーグを頬張る。手作りのソースの味は、まろやかでコクがある。

「美味しい。」

思わず口から零れた。

このハンバーグを、一緒に食べてくれる人がいたらいいのに。口の中に広がる肉汁と、生トマトとケチャップとウスターソースで煮込んだだけのシンプルなトマトソースが絡み合うと、幸せな気持ちになる。


私は、鞄からボールペンを取り出し、ブーケに歩み寄る。そして、メッセージカードの下の方に、言葉を添えた。

「私のお弁当でよければ」

知らない相手にメッセージを送る。私に贈られたブーケじゃないかもしれない。ブーケの贈り主は、かなり変わった人かもしれない。このブーケは、このまま放置され、私のメッセージを目にする人はいないかもしれない。だけど今の私は、この柔らかな空気の中で、お弁当を一緒に食べてくれる人がいたらどれほど楽しいか、想像が膨らんでしまう。この煮込みハンバーグを美味しいと言ってもらえたら、優しい気持ちで満たされるだろう。


ブーケからガーベラを抜き取り、コートの胸元のポケットに差し込んだ。ブーケそのものは、ベンチに置いたままにした。ガーベラの甘い香り包まれながら、東屋を後にする。園内に植えられたソメイヨシノをよく見ると、蕾が少し膨らんでいる。まだ寒いけれど、開花に向けて着実に準備をしているのだ。数メートル先にある梅の木は、ちらほらと花を咲かせている。さっきより軽やかな足取りで園内を横切る私は、春の空気が運んできた魔法にかかったのかもしれない。