もうひとつの抽斗


夏海は、「地球の歩き方」を眺めることが好きだ。図書館で借りた「地球の歩き方」を何冊か机に置き、赴くままにページを捲りながら、あらゆる国の風景を想像することが、夏海にとって心が解放される時間だ。夏海と同じ十四歳の女の子が、中国やインドやオーストラリアでは、どんな時間を、今、過ごしているのだろう。そんな想像をよくする。この日本という国で生まれ育ち、やがて死んでいく。与えられた運命だけれど、「当たり前の世界」だけしか知らずに死んでいくことが、夏海にとって恐怖に思われた。数ヶ月前まで、夏海にとって「死」は漠然とした存在だった。死、それは、自分の存在どころか、「自分」という概念すら消えてしまうことだけど、ピンとこない。しかし、今の夏海は、その概念の実態があやふやになっている。発端は些細なことだった。クラスメートの何人かで組まれているLINEグループの会話の中で、夏海が、一人の生徒のことをかばった。その子は口下手で自己表現が出来ないから、クラスの中でも蚊帳の外に置かれる存在だった。夏海は、その子に対して特別な感情を持っていないが、不当に扱われていることを疑問に思ったのだ。LINEでの夏海の発言から異変が起きた。夏海のメールを皆が既読しても無視するようになった。教室内でも、夏海は透明人間のごとく扱われた。夏海が話しかけても、皆、気まずそうに作り笑いをして、その場を去る。夏海はいじめを受けているわけではない。夏海という存在を無視しているのだ。夏海はうっすらと思う。これが「死」なのかな。もう、死んでもいいってことなのかな。だったら死ぬ前に海外へ行きたい。それから夏海は、行ったことのない国の景色を想像するようになり、そんな理由から「地球の歩き方」を眺めるようになった。

「地球の歩き方」の最初のページに、その国の基本情報が載っている。言語、通貨、宗教、電車の乗り方、街の地図。今までの夏海の常識から、完全に切り離された場所があることが不思議に思えた。夏海にとって、国境を越えた世界は全てが刺激的だった。そして、その場所を想像することが、辛い現実から逃避出来る手段だった。人は八十歳まで生きるとして、夏海が生きてきた時間の五倍以上の年月を過ごすことを簡単に計算する。今まで生きた年数の五倍。考えただけで気が遠くなる。今まで生きてきて、見たこと、感じたことが、もっともっと積み重なる。それらを織り成しながら、ゆっくりと「死」に向かう。もし、自分にそんな生き方ができるのであれば、ひとつひとつの感情の糸を紡いで、一枚の布を仕立てるような日々を過ごすのだろうか。夏海は、心のタンスを想像する。誰しも、心の中にタンスがあって、そこに様々な服が仕舞われている。綿や麻やポリエステル、いつかは絹で出来た服も仕舞えたらいいな。海外へ行けたら、今まで見たことのない素材の糸に出会えるだろうか。それで仕上げた服はどんな肌触りがするのだろう。とっておきの服は丁寧に畳んで、タンスの一番奥の抽斗に保管したい。その抽斗を開けたら、カラフルな色彩が視界に飛び込んでくる。そんな特別な抽斗が欲しい、と夏海は願う。

 夏海は「地球の歩き方 タイ」を読みながら、外から聞こえる鈴虫の鳴き声に気付いた。知らぬ間に、秋の気配が近づいている。リーリーリー。タイでもこの鳴き声は夜に響くのだろうか。夏休み最後の夜。夏海にとって、重い鉛のような塊が圧し掛かる時間だ。勉強机の一番上の薄い抽斗を開けると、ボールペンや消しゴムと一緒にカッターナイフが入っている。夏海はそれを取り出し、慣れた手つきで、太ももの内側にそっと刃をあてる。夏海の身体の目立たない箇所に、無数の傷跡がある。これで死のうとは思わない。滲み出る血と痛みで、「生かされている自分」を認識する。透明人間でも痛みを感じるんだ。学校に自分の居場所なんてない。いつか、地球のさまざまな場所を歩く方法を見つけることができたら。自分の居場所を見つける事が出来たら。沢山の糸を紡いで、綺麗な服を作ろう。そして、抽斗をもうひとつ作ろう。だから、今夜を乗り越えるんだ。夏海はカッターナイフを、勉強机の一番下の抽斗に放り込み、そこに鍵をかけた。