🌟short story writing📚💻📝

気ままに短編小説を書いています。

川底に沈む

僕の住むマンションは川沿いにある。それは、川、というより運河に近く、流れは少なくて水は常に澱んでいる。僕は昔から、川沿いに住むことに憧れていた。子どもの頃に見たトレンディドラマの場面のひとつに、主人公が自分のマンションのベランダで、川を眺めながらお酒を飲む、というものがあった。その情景に何故か強く惹かれた。周りからは、「虫が入るよ」「臭いからやめたほうがいい」など散々言われたが、僕は意思を曲げなかった。やがて職場近くに川沿いのマンションを見つけ、念願のリバーサイドライフを送っていた。

 


仕事から帰り、ベランダに出てビールを飲むことが至福の時間となった。僕の部屋の、川を挟んだ向かい側にもマンションやビルが立ち並んでいて、川の両側の建物が水面を境にして、鏡のように映る。夜の闇と共に、建物の明かりが水面に揺れる様子は幻想的で、ずっと見ていたくなる。僕は折りたたみ式の椅子に座り、小さなテーブルにつまみと缶ビールを広げ、思い切り夜気を吸いこむ。

それと、もう一つ。僕がこの時間にベランダに出る理由がある。

僕のマンションと、川を挟んでちょうど向かい側にもマンションがある。マンション、というより雑居ビルのような感じの建物だ。僕が住む6階と同じ高さにも部屋があり、そこに住む女性がいつもこの時間にベランダに現れるのだ。彼女は、いつもキャミソールとショートパンツ、といったラフな格好に、髪をアップにまとめて洗濯ものを干す。この時間に干さざるを得ない事情があるのだろう。川を挟んでいるからそれなりの距離があるものの、彼女はスラリとした身体で、遠目からみても目鼻立ちがはっきりしていることが分かる。彼女が手際よく洗濯物を干す姿を、ぼんやりと眺める。下品な行為かもしれないけれど、これだけ離れているし、眺めるくらいいいだろう。僕は心地良く酔いながら、彼女の細い二の腕を感触を想像しながら月光浴をする。

 


真夏の通り雨が何回も訪れる日。強い雨が降っては止み、また強く降るという不安定な気候が夜まで続いた。僕はベランダでビールを飲むことを躊躇い、カーテンを閉めようとする。ふとその時、向かい側のマンションを見たら、例の彼女がベランダに佇んでいた。キャミソール姿ではなく、黒っぽい色のワンピースを着て、長い髪をおろしている。いつもと違う姿に、ドキッとしてしまう。僕はカーテンを少し開け、窓から彼女の様子を眺めた。今日は、洗濯物を干すこともなく、真っ直ぐにこちらを見ている。

何故だろう。こんなに離れているのに、彼女は僕の顔をしっかりと見つめているように感じる。微動だにせず、サッシに両手を置き、何かを訴えているような視線を投げてくる。僕は、彼女から目が離せなくなってしまう。

強い雨が、川の水面を叩く。彼女はワンピースのポケットから、何かを取りだした。赤い長方形の物体は、スマートフォンだろうか。僕は注意深くそれを見つめる。

その瞬間だった。彼女はスマートフォンを川に向かって思い切り投げつけた。

「!?」

僕は声にならないような声を洩らした。あまりに突然の出来事で、動悸が激しくなる。

赤いスマートフォンは深い闇の底に沈んでしまった。一体、どうしてそんなことをするのだろう。彼女は僕を見据えたあと、くるりと踵を返し、部屋に入る。そしてカーテンが素早く閉められた。僕は信じられない光景を目にして、しばらく川面を眺めながら茫然としていた。

 


その夜は眠れなかった。何度も寝がえりを打っても脳が休まらず、耳に入る雨音が頭の中で反響を繰り返す。思い切り腕を伸ばしてスマートフォンを投げつける彼女の姿が、目に焼き付いて離れない。ベッドから起きて水道水をグラスに注ぎ、一気に飲み干す。ベランダ越しに彼女の部屋を見る。灯りは点いていない。

僕は覚醒した頭を抱え、しばらくリビングのソファで横たわっていた。時計は午前2時を少し回ったところだ。秒針の音が、空間の静寂を引き立てる。この時の自分を、どう表現したらいいのか分からない。僕は起きあがり、スウェットを履いた。何かに憑依されたかのように、玄関に向かい、スニーカーを履く。ビニール傘を持ち、エレベーターへ向かった。

自分の意志で動いているはずなのに、体は、何者かに支配されてしまったような感覚だ。何故こんな夜中に傘をさして歩き、川の向こうのマンションへ向かっているのだろう。何故、彼女が住んでいるマンションの方へ脚が動くのだろう。彼女に会いたいわけじゃない。ただ、そのマンションの存在を確かめたいだけだ。そう自分に言い聞かせる。

彼女が住むマンションは外壁のところどころに濃い灰色の汚れが筋のように走っていて、陰気な雰囲気を漂わせていた。エントランスに入ると、封筒やちらしがはみ出すほどに放置された状態の郵便受けが幾つも並んでいる。蛍光灯の照明は点滅を繰り返し、カビ臭い匂いが漂う。足元には空のペットボトルや、水でふやけた週刊誌や新聞紙が落ちている。古びた配電盤の下に使用済みのコンドームが転がっていて、思わず目を背けた。

郵便受けの横にエレベーターがあり、「6」という数字を押そうとして、やめた。僕はここから去るべきだろう。今日は、どうかしている。その時だった。

僕の背後に人が回る気配を感じ、すっと後ろを振り向いたら黒いワンピースを着た彼女が両腕を僕に巻きつけてきた。何も音は無かった。

僕は驚いて声が出ない。驚いているはずなのに、僕は彼女の両腕を解こうとせず、なされるがままになっていた。ワンピースの下にブラジャーをつけておらず、乳房の柔らかさが僕の腹に伝わる。彼女は背伸びして、僕の唇を奪った。そして掠れた声で囁く。

「こうしたかったんでしょう?」

僕は何も言わず、彼女の唇を受け入れた。

僕はどうしたかったのだろう?自問しても答えが出ない。僕は、強い流れに逆らうことが出来ない稚魚のようだ。川を挟んで向かい側に棲む女と、身体を貪るように抱き合う。

僕たちはエントランスから少しずつ移動し、いつの間にか駐輪場へ来ていた。その向こうには暗い川が見える。駐輪場の太いコンクリートの柱に身を預け、その無機質な冷たさと二人が発する熱の両方を肌で感じた。僕は、彼女から身体中を侵食されながら、思考回路が止まった脳の片隅で赤い物体を思い出す。雨が降る夜、川底に投げ捨てられたスマートフォン。僕もいま、同じ場所へ向かっている。暗くて澱んだ、深い水の中へ。