🌟short story writing📚💻📝

気ままに短編小説を書いています。

冷たい雨

僕が住む街には、日本でも有数の大きさを誇るモスクが建っている。モスクとは、イスラム教の寺院のことだ。それは白い外観で、礼拝の時間以外は誰でも自由に見学をすることが出来る。建物の中心に礼拝堂があり、そこの円形の天井には青や黄を主体としたタイルが敷き詰められていて、中心には象形文字のような柄が羅列されている。その少し下に、透かし彫りのガラスがはめ込まれていて、淡い光が差し込む。

僕はたまにモスクを訪れ、赤い絨毯が敷かれた礼拝堂の床に座り、ぼんやりと過ごす。

礼拝堂には神様を模したものが祀られていない。静寂が漂う空間があるだけだ。僕は信徒ではないから神様の気配を感じることはないけれど、この空間に身を置くと、気持ちが浄化されていくような気がする。ここは、女性が入場するときは、頭に白い布(ヴェール)を着用する決まりがある。礼拝堂の入り口には、来場者用のヴェールが何枚か置かれていて、それを身に着けた女性の姿を見ると、礼拝堂の神聖さが増すように感じる。


冬の冷たい雨が降り注ぐ昼下がり。礼拝堂の窓際に佇み、物憂げに外を眺める女性に視線がいった。ヴェールから覗く横顔が美しく、僕は遠くから見つめていた。彼女も僕の視線に気付き、お互いに目が合うと何となく気まずくなって視線を逸らした。彼女は窓からの景色をしばらく眺めた後、僕と同じように礼拝堂の片隅で体操座りをして、中央の祭壇を見つめていた。時々、顔を傾けたりするが、体は微動だにしない。冷たい雨が深々と樹木を濡らす音以外、何も聞こえない。僕は、彼女と同じように祭壇をずっと見つめていると、二人だけが呼吸をしている小さな惑星にいるような感覚が芽生えた。ふとした瞬間だった。白いヴェールから一滴の雫が零れ落ちたのを、僕は見逃さなかった。彼女はずっと動かないままだ。しばらくすると、はらはらと雫が落ちてきた。僕は体が固まってしまった。見てはいけないものを見てしまったような気がしたし、大切なもの見つけることができ、それを守りたいような感情も入り乱れた。空気の密度が濃くなっていく。静けさが凝縮され、飽和に達したかのように思えた瞬間、目に見えない何かがプチンと弾けた。僕は立ち上がり、彼女のそばへ歩み寄った。


僕は鞄からハンカチを取り出し、彼女に差し出した。彼女ははっとして僕を見つめ、すぐに目を伏せた。

「よければ使ってください。」

彼女は半分口を開いて、僕を見つめたあと、ゆっくりと瞬きをした。

「ありがとう」

掠れるような声で囁く。

彼女は瞼の下を軽くハンカチで押さえた。しばらくして、大粒の涙が頬をつたい、それをハンカチで拭う。涙は、冬の雨のように、静かに流れてくる。

僕は、彼女の涙の理由を尋ねなかったし、彼女も話したくはないだろう。この場所では、言葉を必要としない。いま、ここで呼吸をしている。それだけでいい。

「あの、ハンカチ、洗ってお返しします。」

彼女は遠慮がちに呟いた。

「またいつか、この場所でお会いした時でいいです。その日まで、持っていてください。」

「…わかりました。」

僕は、彼女の瞳を見つめた。潤んだ瞳はまっすぐに僕を見つめ返す。僕は少し頷いた後、立ち上がった。そして、後ろを振り返らずに出口へ向かった。


彼女と、またここで会えるかどうか分からない。

僕は今日、あの場所で彼女と出会い、同じ時間を共有したことの余韻を残したかった。

もう一度、礼拝堂で会えるのなら。冷たい雨が降り注ぐ日ではなく、柔らかな日差しが窓から差し込む日がいい。願わくは、あの白いヴェールから、微笑みを見ることができたらいい。僕は、傘に落ちる雨音を聞きながら、しっとりと濡れた街路樹の横を通り抜ける。