短編作「月光」

月光

太陽が海に沈みかける頃、断崖に建つウルワツ寺院の周りは賑わいを増していた。寺院の数百メートル先にある競技場のような円形の広場には、既に数百人の観光客が、中心を囲むように座っている。ステージの中央の灯籠の灯が風に揺れ、香木の香りが周りを覆った。広場の裏手にいるアヒアルはこの香りを嗅ぐと気持ちが落ち着かなくなり、腰に巻かれている衣装の紐を弄ぶ。若いアヒアルは腰が細く、どうしても紐が余ってしまう。アヒアルを含む演者の男達も、口数が減り、呼吸を整える。やがて、指揮官の合図が出されると、28人の男達が一斉に広場へ駆け、灯籠の周りを囲む。
ケチャケチャケチャケチャ……」
演者達の口から発せられる呪文のような言葉。これが幾重にも合わさると、重低音の楽器が響いているようだ。アヒアルは演者になって日は浅いが、この儀式に加わると、脳内から興奮物質が放出され、高揚感の波に溺れる。灯籠の灯と共に、身体が揺れる。やがて、このステージの主役、王女を演じるマーサが姿を見せた。煌びやかな衣装を纏い、足の指先から頭の先まで神経を巡らせた動きは妖艶で美しい。瞳は、息吹を与えられた人形の如く、眼差しの強さを保ちながら、瞬きすらしない。アヒアルは華麗な王女を前に、一層興奮する。一人の少女が、時を経て、大きな羽を広げる姿を目前にすると、アヒアルもそれに呼応するように演者として磨きをかけたいと願う。ステージで舞うマーサを見つめながら、アヒアルの声はひときわ大きく響いた。

ステージが終わり、皆が寺院から帰路につく頃。アヒアルはいつもの習慣で、興奮の残骸が残るステージを外壁の隅から覗いていた。マーサが、一人残ってステージで踊りの練習をしているからだ。アヒアルとマーサは幼なじみで、同じ村で育ち、よく二人で遊んだ。マーサは子供の時からバロン舞踊が上手く、子役としてステージに立っていた。目鼻立ちがはっきりとしているけど、体の線が細い。母親からラム肉を沢山食べるように言われていて、それを嫌がっていた。次第に、マーサの踊りは円熟味を増し、ウルワツ寺院で看板になるほどの踊り手になっていた。マーサは自己練習を怠らない。波音だけが響くステージで、マーサは自分が苦手とする動きを繰り返し練習する。アヒアルは、マーサに見つからないように、そっと見届けていた。最近はマーサが忙し過ぎて、ろくに会話も出来ていないし、有名になるマーサとは少しずつ距離が開いた。だけど、アヒアルはマーサの姿をずっと目で追っている。その夜はマーサの様子が違っていた。灯籠の前でもぞもぞと動いている。誰かいるのか?耳を澄ますと、何か喋っている。
「……もっと指を反らせ。」
男の声だ。あの灯籠には、中に人が一人入るくらいの横穴があり、そこに誰かいるようだ。
「腰を動かして…。」
アヒアルの鼓動が異様に大きくなる。魔物役のエガンが灯籠の穴に半身を隠しながら、マーサの後ろから覆い被さっている。マーサが、声を押し殺しながらも、エガンの腰の動きに合わせて自らもリズムに乗せている。アヒアルは、いますぐ逃げ出したい気持ちとは裏腹に、体が金縛りに遭ったかのように動かない。月明かりの下、誰もいないステージの中央で、見慣れた二人が別の生き物になっている。アヒアルは急に何かがパチンと弾けたように、その場から全速力で走り去った。その時の足音が、もしかしたら二人の耳に届いているかもしれないけれど、考える余裕はなかった。

アヒアルは、どこを目指しているのかも分からず、ただ走ることに身を任せた。寺院から海岸へ出て、そのまま砂浜に倒れ込む。全身砂まみれになりながら、アヒアルは体を大の字にして下弦の月を眺めた。左腕には、麻の組紐と天然石を組み合わせたブレスレットが巻かれている。アヒアルはそれを思い切り引きちぎって海に投げた。来週、誕生日を迎えるマーサにプレゼントをする物だった。ヒンドゥーの習わしで、天然石を身につけて、渡す相手の願い事を念じれば、プレゼントされた後に効力を発揮するという。アヒアルは、マーサの踊りがより上達することを念じていた。だけど今は無理だ。アヒアルが知らないうちに、マーサは大人になっていたのだ。マーサの、困惑と悦楽が混ざったような表情が脳裏に焼き付いて離れない。やがて、アヒアルは自身の混乱が、体の神経を揺さぶり、異常に反応していることに気付いた。波音を聞きながら、虚しく自分を慰めることしかできないのだ。
その後、濡らした箇所を砂で覆い、自身の掌もそれで拭った。やがてゆっくりと立ち上がる。芸術に身を委ねるということ。それが、人間の本能的な欲を刺激するという原理を、アヒアルは僅かに理解しかけていた。マーサが王女役として光を浴びるほど、マーサ自身の影も濃くなる。先ほどの動悸の激しさは収まり、アヒアルはゆっくりと海岸を歩く。見慣れた海が、いつもと違う表情に見える。月光に照れされてキラキラと光る海面の下には、底深い闇の世界が広がっている。アヒアルは、マーサが踊るときの神秘的な表情を海の姿に重ねながら、おぼろげな影を砂浜に落として帰路についた。