短編作「サイレント」

                    

黒光りするアップライトピアノの鍵盤の蓋は閉じたまま。そこに肘を付き、視線を斜め下に落とす女性が目の前にいる。ピアノの天屋根には、透明なグラスに挿されている赤いアネモネが一輪。次の作品展に向けて、僕は一人のモデルを雇い、制作に打ち込んでいる。絵画用のプロのモデルとして活躍している香澄はまだ十八歳。顔立ちは地味な方だが、体の肉付きが良く、手足が長い。絵画のモデルは痩せていては駄目だ。一目見て香澄を描きたいと思った。白いキャミソールのワンピースを身に纏い、微動だにしない香澄とアトリエで二人きりになると、僕は時間の経過を感じること無く、筆を進ませることが出来た。どんなモデルを使用するときも、一時間に五分程度の休憩を挟むが、香澄はそれを必要としない。気が付いたら二時間以上経過していることがある。キャンバスには、モノトーンの色彩に、アクセントとなる赤が一つ。そして、香澄は無機的な人形のような表情で佇む。絵筆がキャンバスを走る音だけの静寂が訪れると、たまに耳の奥で微かな金属音が走るようになった。神経が高ぶっているのだろう。完成度の高い作品ができあがる予感と、緊張感が僕の中で膨らんでいた。

完成を間近にして、僕は香澄の表情をより鮮明に描き込んでいた。肌の凹凸や、毛穴まで感じるくらいの至近距離で制作をする。香澄は呼吸を止めているかと思うくらい動きが無い。目の瞬きすら、かなり少ない。瞳を覗き込むと虹彩はやや茶色っぽい。微かな鼻息を感じた時、香澄の二の腕と僕の肘が触れた。ふんわりと受け止めてくれるクッションのような感覚。思わず僕は右手で軽くその腕を掴んでしまう。柔らかな肉感が僕の掌に伝わり、指で軽く押さえる。僕は我に返り、すぐに手を香澄の腕から離した。
「ごめん。」
「…いいえ。」香澄は抑揚の無い声で応える。
香澄の肉体に触れた途端、耳鳴りが大きくなり、それが不規則なリズムを刻むようになった。そして、空気の塵さえ無くなったのではないかと思うくらいの静寂が僕を襲う。無音の空間にいると平衡感覚が無くなる。ふらふらとピアノに寄り、鍵盤を叩いた。ウッドブロックの柔らかな木の音色のようなものが「コロン」と、鼓膜を揺らす程度にしか聞こえない。力の限り鍵盤を叩くうち、音は遠のいていく。僕の耳はおかしくなってしまったのか。呻きながら鍵盤と向き合う僕の後ろで香澄が囁いた。高音質のスピーカーから流れるような、はっきりとした声で届く。
「タイトルに合わせました。心配要りません。」
僕が作ろうとした作品の世界。香澄に触れた途端、僕のほうがそれに飲み込まれてしまったのか。この絵が完成したら、僕は解放されるのか。作業台の上に「Silent」
と書かれたメモ用紙が置いてある。心に決めていたタイトルを今朝、初めて書き記した。香澄はいつの間にかそれを見て、僕の作品を完成に導く為に仕事をしたのだ。