短編作「Roman Holiday」

                               

ローマ行きの特急列車に乗り、車窓から田園風景をあてもなく眺める。僕は、小麦色の肌と引き締まった足首を持つアリーチェの姿を何度も思い浮かべながら、落ち着かない気持ちでスプマンテを口にする。
二週間前、僕が働いている靴工房に一人の女性が訪れた。彼女は工房内のディスプレイや、僕が働く様子をじっと見つめていた。やがて、オーナーにローファーの製作を依頼する。僕は彼女の素足に巻き尺を巻き、採寸を始めた。彼女の足の特徴は、綺麗に引き締まった足首だ。アキレス腱がしっかりと浮き出て、ふくらはぎとのバランスが美しい。
「どこから来たんですか?」僕は彼女に話しかけた。「ローマです。今日はフィレンツェの靴屋街を回りたかったんです。」僕は十八歳で故郷の香港を出てから七年、フィレンツェで靴の勉強に専念するばかりでローマに足を踏み入れた事が無かった。その旨を彼女に伝えると、僕に分かるような丁寧なイタリア語で話し始めた。
「ローマは半月後に行われる『ろうそく祭』に向けて活気づいています。スペイン広場での幻想的な光景を、私は毎年楽しみにしています。」ろうそく祭とは、聖母マリアの昇天を祝う伝統的な祭りらしい。彼女が待ちわびる幻想的な光景は、どれだけ美しいのだろう?ローファーは二週間後に完成するとオーナーが伝えると、彼女は一ヶ月後に工房に再訪すると応えた。「あの、良ければ僕がローマまで届けに行きます。」僕の口からふと言葉が出た。それは予め用意した言葉ではなく、雨が空から落ちるように自然に流れてきた。彼女は驚いて目を見開く。「貴女のお話を聞き、ローマに行きたくなりました。直接お渡しに行けたらと思っています。」彼女の目尻が下がり、次第に笑顔が広がった。彼女は小さなメモ用紙を僕にくれた。そこには「アリーチェ」という名前とメールアドレスが記入されていた。
素性を知らない女性の元へ靴を届けに行くなんて、我ながら大胆だと思う。ローマという街に興味はあるが、それよりも、彼女が住む町で彼女に会いたかった。欲を言えば、二人でろうそく祭を見てみたい。メールでやり取りを始めると、彼女はローマを案内してくれると言ってくれた。僕はすっかり興奮して、二週間落ち着かない気持ちで過ごした。
「ヤン、今日はローマに来てくれてありがとう!」駅の改札口で、満面の笑みで迎えてくれたアリーチェのおかげで、僕の緊張の糸が解れた。ローマの日差しはフィレンツェより強く、地面を這う石畳や、歴史を重ねた建築物に濃い影を落とす。アリーチェの焼けた肌が陽を浴びるとキラキラと光って綺麗だ。「私は調香の勉強をしているの。いつか独自の香りを作り出せる職人になりたい。オーダーメイドの靴が欲しかったのは、私の為に作られた一足の靴が力を与えてくれるんじゃないか、そんな気がしたの。」システィーナ礼拝堂の薄暗い回廊の中で、彼女の声が空間を震わす。「あの工房で、ヤンが真剣な眼差しで靴作りをする姿を見て心を動かされた。黄色の肌の靴職人が、国籍や偏見を乗り越えて、フィレンツェで一流を目指すって、並大抵のことではないわ。」アリーチェの腕とギリギリに触れない距離を保ちながら、僕の心は暮れゆく太陽のように溶け始めていた。片手に持つジュースが無くなっても、落ち着きを保つ為にストローを口に運ぶ仕草を何度も繰り返した。
夕闇が空を覆い始めた頃、僕たちはスペイン広場に辿り着いた。アリーチェが今夜、他の誰かと祭りをみることを想定して、僕は敢えて「ろうそく祭を一緒に見よう」と声をかけなかった。こうして、僕と自然にスペイン広場を訪れた彼女の隣りにいるだけで、鼓動が早まりそうだ。やがて、明かりが灯る燭台を手にした聖歌隊が澄んだソプラノを奏でながら広場を練り歩き始めた。後方にはハンドベルを演奏するシスター達が続く。アリーチェの肩が僕の肩に触れ、ごく自然に寄り添うような姿で僕たちは教会の階段に佇んだ。アリーチェが鞄から小さな巾着を取り出し僕に渡した。中には小さな小瓶が入っていた。「ヤンに渡そうと思ってアロマオイルを調香したの。心身とも安らぎを感じるようなオイルにしたくて。グローブとミントの香りよ。」小瓶の蓋を開けると、爽やかな緑や土の香りに包まれた。吸い込むと、全身が弛緩されるようだ。聖歌隊は手にしているろうそくの灯りを、教会を囲む樫の木に添え付けられたランタンに灯した。広場全体が、揺らめく光に覆われる。「ありがとう。心と体の紐が解れるような、心地良い香りだ。僕の事を想って調香してくれたこと、とても嬉しい。」僕はアリーチェの右手に触れ、指を絡ませた。「君の為の靴をもっと作りたい。型は工房にあるから、僕が作って、君のもとに届けに行ってもいいかい?」アリーチェは眩しいもの見るように僕の目を見つめた。そして、僕の手をぎゅっと握りしめながら頷いた。魔法にかけらえたような時間。アリーチェの体温とアロマの香りが僕を包むと、これが夢か現実か、分からなくなる。夢心地で過ぎる一日をローマで過ごすことがあってもいいだろう。目の前に広がる、光の園と美しい歌声に包まれて、僕らは時間を忘れて寄り添っていた。