短編作「城を築く」

城を築く

新緑が揺れ、心地よい風を運ぶ5月の昼下がり。荘厳な御堂を後ろに将棋盤を叩く音が響き渡る。対戦者の葛城五段は、「動く」ことを柱とした戦術で攻めてくる。僕の一挙手に対し、攻め・守りのあらゆる対策を瞬時に考え、相手に戦法を読み取らせないことを得意とする。ただ、粗も目立つ。サイドから香車で攻める一方、歩兵たちは城を守りきれずに点在している。僕はひたすら、葛城五段の動きを静観するように大人しく駒を進めた。一気に城に攻めたい気持ちを抑えながら、ひたすら待つ。葛城五段の金将が孤立した瞬間、僕は手のひらを返したように攻めに入った。飛車を前衛に、そして銀将と歩兵たちを進め、葛城五段の城を完全包囲した。葛城五段の額に汗が光る。僕は深呼吸をしながら、大胆に攻め続けた。最後の砦が八方塞がりになった直後、菩提寺の庭に佇む鹿威しが終わりを告げるかの如く、慎ましやかに鳴った。
「負けました。」
「ありがとうございます。」
フラッシュが瞬き、僕の周りに観戦記者が囲む。タイトル戦5勝目を獲得したことについて、「良い試合でした。」と、最小限の感想だけ伝え、その場を離れた。

タイトル戦翌日の月曜日。早朝の6時、喫茶「星山珈琲」のフロア掃除から僕の一日が始まる。月曜から土曜の早朝から昼まで、僕はこの喫茶店でアルバイトをしている。プロ棋士になって5年。サラリーマンを辞め、副収入を得るためにここでバイトを始めた。現在はサラリーマン時代より多くの収入を得ている。だけど、僕は自分の生活リズムを整える為にここで働く。勤務後は窓際の一番角の席で、将棋盤を置き、サンドイッチを食べながらひたすら討つ。店長が僕を応援してくれていて、座席を使うことを許してくれた。
「立花君、昨日はおめでとう。終盤の攻撃は見事だったよ。」
「ありがとうございます。長期戦になりましたが、観察力を鍛えるような試合になりました。」
「君の、微動だにしない表情は、相手を混乱させると思うよ。ここで愛想良く働くお兄ちゃんだなんて知ったら、みんな驚くだろうねぇ。」
「僕の精神を高める訓練は、この店で行われています。早朝から働き、昼からは将棋盤に向き合う。静かな空間では無く、ざわついていた方がいいんです。そして、眼前を流れる雄大な長良川の景色。とても贅沢な空間をもらい、僕は幸運です。店長には感謝してもしきれないです。」
「泣けるねぇ。立花君がどんどん強くなって、日本一の将棋士になってもこの店にいて欲しいよ。」
「何年後になるか分からないけど、目指します。それまでこの席があると助かります。」
お互い笑い合った後、僕は外の景色を見る。川の表情を見ていると、絡まった心の糸が解れる。太陽の光を浴びて、川面がキラキラと輝いていたり、雨量が多いと濁流の渦を巻くこともある。そして絶えず動いている。僕は川の流れのように、将棋の駒を打つ手を動かし続けたい。それは、攻める時も守る時も。僕は将棋会館でもらう、「将棋士対戦履歴」を片手に駒を動かす。この紙は、あらゆる対戦の記録が明記されおり、棋士達の討ち方を学ぶ教科書にもなる。陽が沈む頃まで、僕はその席であらゆる攻め方や守り方をシミュレーションする。

毎週日曜日は、午前中から将棋会館へ行く。ここで対局をすることもあれば、練習試合をすることもある。テレビ中継されている対局があれば、皆でそれを観戦することも多い。今日は特に予定は無いから、誰かと練習試合が出来ればと思い、赴いた。応接ホールのソファに座るなり、昔からの将棋仲間の二宮が駆け寄って来た。
「おい立花、あそこに座っている高校生、先月入会したばかりの高校生なんだけど、ちょっと得体が知れないんだ。さっき、野村四段と練習試合したら、四段を負かせてしまった…」
「なんだって!?」
高校生は制服のブレザー姿に、銀縁の眼鏡をかけた大人しそうな青年だった。黙々と教本を読んでいる。
「試合は四段のほうが優勢だったのに、後半の追い込み方が凄い…。」二宮は興奮が冷めやまない様子だ。その時、高校生はふと僕の顔を見た。一瞬目が合ったが、僕はすぐに逸らしてしまった。高校生は僕たちのほうに近寄り、遠慮がちに喋り始めた。
「お話中にすみません。初めまして、夏目薫です。先月、将棋連盟の入会テストに合格したばかりの者です。以前から、立花五段の対局はずっと映像で見てきました。あなたの戦術に惹かれています。厚かましいことを言うのは百も承知ですが、今日、僕と対戦してくれませんか?」
静かだけど、大木の幹のように芯の強い口調だった。眼鏡のレンズから見える眼光の鋭さに、僕は射貫かれるような怖さを感じた。

夏目はとても静かな戦い方をする男だった。討てるチャンスを得ても、駒を進めない。僕もそういう戦い方を得意とするのだが、夏目のそれは、相手を不安にさせる不気味さがある。僕は桂車を進ませながら、じわじわと敵地に踏み込んだ。夏目の角行が進むと、次は香車が前に進み出た。ようやく動いてきたな。僕は自分の城を守りながら、夏目の前衛隊を狩りに行こうとした。その直後だった。夏目は後ろに控えていた飛車を進ませた後、桂車を後進させた。何がしたいんだ?夏目は駒を一進一退させ、僕を迷宮に誘うような討ち方をし始めた。しかしサイドからは香車が直進してくる。やばい。いつの間にか夏目のペースに巻き込まれている。ちらと彼の顔を見る。呼吸さえしていないような静寂な空気が彼を取り囲む。僕の脇に汗が滲む。無名の新人の戦術に混乱するなんて…。僕は深呼吸をして、気を落ち着かせる。まず城を守りながら、夏目の隙を狙う。延々と攻防戦が続き、僕の精神が疲弊してくる。そして、夏目の城壁の一カ所が崩れたのを見定め、一気に攻め込んだ。
「負けました。」
「ありがとうございます。」僕はかすれた声を絞り出した。勝ったものの、ほぼ互角。いや、情勢は夏目が上を行く場面が何度もあった。
「立花さん。今日はお相手して頂き、有り難うございます。とても勉強になりました。」
夏目は丁寧にお辞儀をする。僕は軽く会釈をして、将棋会館を後にした。

岐阜駅からバスに乗り、金華山登山口で降りる。陽が落ちるにはまだ時間がある。僕は緩やかな山道を歩き始めた。この山は、始めは緩やかだが、途中から急に傾斜がきつくなる。一気に緑が深くなり、足下はごつごつした岩が続き、低山だが難所が多い。僕は岐阜で生まれ育ち、金華山は身近な存在だ。そして、将棋の世界に足を踏み入れた時から、たまにこの山に登山をするようになった。心が乱れた時、気持ちを落ち着かせるために山道を歩く。延々と足を進めると無心になれる。登り初めて一時間後、空が拓けてきた。山頂に辿り着くと、雄大な濃尾平野が眼下に広がる。山頂には岐阜城、街の中央を流れる長良川。この広大で自然に富んだ土地を見渡し、織田信長はここで城を築く事を決意したのだろう。戦乱の世をくぐり抜け、勝利の象徴として建立された岐阜城。やがて、家臣である明智光秀に裏切られ、この世を去る…。金華山山頂の空気を吸いながら、激動の人生を生きた織田信長を思い、勝負の世界を顧みる。高校生の新人に負けることが起きてもおかしくないのだ。将棋盤を挟み一対一で向き合えば、あらゆる戦術を駆使して、大物を倒すことも出来る。そんな世界に身を置いているのに、今日僕は明らかに動揺してしまった。僕は山頂からの景色を眺めながら、陽が落ちかける頃までその場に佇んでいた。

帰宅後、僕はインターネットで将棋連盟にアクセスし、夏目薫の対局履歴を全て印刷した。彼の戦法の特徴を掴むことは極めて難しい。対戦相手によって変化させているのか、それとも、敢えて特徴を掴みづらくしているのか…。時間の経過を忘れて、今までの夏目の戦いをシミュレーションするように、将棋盤の駒を動かした。

一週間後の日曜日、将棋会館で夏目を目にした。椅子に座り、ひたすら将棋盤と教本に向き合っていた。僕が近寄ると、はっと顔を上げ、立ち上がる。
「こんにちは。こないだは有り難うございました。」夏目は丁寧にお辞儀をする。
「こちらこそ。良い試合ができて刺激になったよ。実は、夏目君に少し話があるんだ。」
僕は、夏目と共に、将棋研究会を発足したいと打診した。定期的に行い、互いに戦術について鍛錬する機会を設けようと。
「え…。立花さんは僕より数段上を進む人なのに、僕と研究会だなんて。」夏目は驚き、目を伏せてしまった。
「こないだ、君と練習試合をしたとき、僕はたじろいだ。新人なのに、野村四段との戦いを制し、僕とはほぼ互角。試合は僕が勝ったけど、君の戦術が上手の場面は幾つかあった。その後、君の今までの対局履歴を見て、改めて驚いたんだ。君の一貫性の無い戦い方が相手を混乱させる。」
「僕は、自分の個性が見い出せないだけなんです。だから手探りで戦っているようなもので…。」
「相手の城を攻める時は気配を消すくらいがいい。二人で様々な対局を観戦し、互いに棋力を高め合いたい。」
夏目は遠慮がちだったが、次第に将棋への熱い気持ちが高まり、二人で研究会発足することに賛同してくれた。
「立花さんと研究会を立ち上げることが出来るなんて、夢みたいです。将棋の世界に入った時から、立花さんの対局はいつも見ていましたから。」
勝負の世界に、キャリアや肩書きは関係ない。悠々と流れる川のように、動きを止めてはいけないのだ。自分の城を築く為には、新しい視野を取り入れる必要がある。夏目と固い握手を交わした後、早速二人で将棋盤に向かい、対局を始めた。