短編作「River Side」

River Side

草のすえた臭いが部屋の中を充満していて、僕はふわふわとした気分になる。二日前に買った、しなびたフライドポテトを口の中に入れると塩気が全く感じられなくて、サルサソースを沢山ふりかける。口の中がピリピリして美味しい。テレビの上に置かれた木彫りの人形が小刻みに揺れている。あ、まただ。耳を澄ませると隣の部屋のベッドが軋む音がして、それがママと、ママのお友達が体操か何かをしている音だ。その部屋の扉はロックされていて入ることが出来ない。どんなことをしているか、とても気になるけど、僕は見ないようにしている。それに、この香りが漂うと、いろいろなことがどうでもよくなって、体を動かすより、ソファに横になっていたくなる。そして、テレビでも、ラジオでも、とにかく音が出る機械の音量を最大にして聴くと、最高に気持ちよくなるんだ。僕はソファに寝っ転がってそのまま眠りに落ちる。
目が覚めるともう夜になっていて、隣にママが座って僕の頭を膝の上に乗せてくれていた。
「エンゾ、赤ちゃんのように可愛い寝顔で寝ていたわ。」
「ママ、お友達は帰ったの?」
「うん。」
「ママとお友達はいつもどんなことしているの?」
「お喋りよ。」
ママは本当のことを教えてくれない。だけどいいんだ。ママは最近とても機嫌がいい。以前のように怒ったり、突然泣き出すことが無い。その代わり、毎日仕事に行かなくなった。焦点の合わない目をしてぼーっと椅子に座っていることが多い。ちょっと心配だけど、カリカリしているよりマシだ。

朝起きて学校に向かうけど、途中で寄り道をして、そのまま行かない日が増えてきている。学校なんて本当にくだらない。腕や背中に入れ墨をした奴らが威張っているし、先生だって、見て見ぬふりだ。僕はダウンタウンや川沿いを彷徨う。肉や魚を売る人、派手な格好をして軒先をうろつくお姉さんたち。ママみたいに、とろんとした目をしている大人は結構いる。それを見ると少しだけ安心する。僕はお腹が空くと、いつも行くお店がある。
「ジルおじさん、今日は忙しそうだね。」
「エンゾ、ちょうどよかった。シンクに溜まっている食器を洗ってくれないか?」
ジルおじさんはケバブやタコスを作る店を一人で切り盛りしている。忙しいといつも厨房はぐちゃぐちゃだ。僕はたまに食器洗いや掃除したりして、ジルおじさんのお手伝いをする。ジルおじさんは大きな体を揺らして、ナイフでケバブを削いだり、包丁を小刻みに動かしてキャベツやオリーブを切る。その動きを見ていると、僕の体も反応するように手がせっせと動き、泡まみれになりながら食器の山を片付けていく。
「ありがとう。きりのいいところで休んでな。」ジルおじさんはケバブの切れ端をお皿に盛り、それを僕に差し出す。湯気と肉汁が溢れるケバブを前にするとお腹の虫が鳴いて、僕は夢中になって頬張ってしまう。ジルおじさんは僕が学校をサボっていることや、家でろくな料理が出ず、いつもお腹を空かせていることを知っているけど、余分なことは聞いてこない。いつもニコニコして、僕にケバブやパンを与えてくれる天使みたいな人だ。

ジルおじさんのお店を出た後、街の中心を流れる川のほとりを歩いた。この川はいつも淀んでいて、魚が泳いでいるところを見たことが無い。どこから流れてくるのか、ゴミや木の枝や葉っぱが絡まり、くるくる旋回したまま河口付近に停滞している。どこにも行けない。水の流れが限りなく少ない川を見ていると、僕は悲しい気持ちになる。僕もぷかぷか浮いていて、この木の枝のように、淀んだ川の上を行ったり来たりしているみたいだ。
流れに乗ることも出来ず、大きな海に辿り着くことも出来ない。

カーニバルが週末に迫り、街は熱気を増し、みんながそわそわした雰囲気になっている頃、僕は風邪をこじらせてしまった。ママは僕を見ておろおろしたり抱き締めたりするだけで、病院に連れて行ってくれない。家には薬は無いから、僕はずっとベッドの上で過ごしていた。胃の中が空っぽで気持ちが悪い。呼吸をするとヒューヒューと変な音が胸から口を通して出る。僕はケバブの切れ端を思い浮かべた。ニンニクや塩こしょうがたっぷりのケバブ。ジルおじさんの大きな手で削られ、僕の口に入る瞬間を想像したら体が動き始めた。ママがシャワーを浴びている隙に服を着て家を出る。ダウンタウンへ向かう途中、サンバの練習やファンデーロを演奏する人たちの合間を擦り抜ける際に足下がふらついて何度もぶつかる。やがて僕の大好きな臭いが漂ってきた。
「エンゾ。最近見ないと思っていたら、ガリガリになっちまって。どうしていたんだ。」
「風邪ひいちゃって。もう何日も何も食べていない。」
「そいつはいかん。とにかく食べて。ろくに薬も飲んでいないんだろう。あとで出すから、肉食べた後は奥のソファで横になっていろ。」
空っぽの胃の中に温かいケバブが入ると、体中の血が動いた気がした。今まで何度も食べたケバブの中で、一番美味しい。夢中になって頬張る。お腹が満腹になるとすごく眠くなって僕はいつの間にか眠りについていた。

目が覚めると、ジルおじさんはソファの横にあるダイニングテーブルで、煙草を吸いながらテレビを見ていた。
「よく寝ていたな。具合はどうだ?」
「だいぶよくなったみたい。」
「バスタブにお湯が張っているから、シャワーを浴びておいで。」
寝ている間に沢山の汗をかいていたみたいで、それを流すと気持ちがよかった。熱めのお湯に入り、体をゴシゴシとこする。気付けば、何日もお風呂に入っていなかった。僕はあの家にいると、頭のねじが飛んで、やるべきことが出来ていないことが多い。たっぷりの泡で体中を洗うと、僕は生き返ったように目が覚めた。バスタブを出て脱衣室へ行くと、ジルおじさんがバスタオルを広げて僕の前に立っていた。
「さあ、体を拭いてあげるから。」
僕は裸を見られて恥ずかしかった。だけど隠しようが無い。大きなバスタオルにくるまれるとおじさんは僕の体の隅々を丁寧に拭く。体の水滴が拭き取られると、バスタオルが床に落ちて、おじさんは僕を背後から抱き締める。
「ちょっと。やめて…」
大きな手が僕の股間を撫で回し、僕は金縛りに遭ったみたいに動けなくなってしまった。
「ここにいればいい。もうお腹を空かせることもないから。」
そのまま抱きかかえられて、ソファに寝かされる。僕の恥ずかしいところをおじさんは沢山キスをしてくれる。ものすごくいけないことをしているのに、僕はだんだん気持ちよくなって、どうでもよくなってしまう。あの草のすえた臭いをかいだ時みたいに。
付けっぱなしのテレビが世界中のニュースを流している。この国からちょうど地球の反対側にあるJapaoという国では、宇宙船のように早い「RINIA」という電車を作るらしい。時速600キロとはどれだけ早いのだろう。そんな電車が、いつかこの街を走ればいいな。そしたら僕はこの街を簡単に出ることが出来るのに。淀んだ川に浮いたままでは嫌だ。だけど僕は、操られた人形のようにソファの上に寝かされる。外から聞こえるサンバのリズムが、僕たちの体に響いて心地が良くなる。