短編作「rainning」

raining

雨に濡れる窓を、温室内から眺める。この空間の植物たちは、外の気候に影響されること無く、一定の温度に保たれた空間で生息している。最適の湿度と温度で、思い思いの姿で生きる。葉は艶ややかで濃い緑色、花の中央から伸びる柱頭は真っ直ぐで、先端は果実のように膨らんでいる。雨音を聴きながら、いつもの姿で迎えてくれる植物達に囲まれると私は包み込まれるような安心感を得られる。雨の日の温室は、私が一番好きな場所だ。スケッチブックを抱えたまま、椅子に座る。静かな雨音を聴きながら目を瞑る。しばらくしてゆっくりと目を開け、対話する植物を見つけるために温室内を歩く。「ケレルマニイ」という、中南米に生息する白い花が目に留まった。蓮のような大きな葉に、白い貝殻のような花弁が密集している。一見目立たないが、私はその花に問いかけてみたくなった。
<ねぇ、その小さな体で大きな葉を纏い、重たくないの?>
<大丈夫。この葉は私を守ってくれるマントなの>
私は彼女の声を聴き、その姿を描写したくなった。折りたたみ式の椅子を拡げ、彼女と向き合う。
<綺麗に描いてね>
彼女はちょっと照れながら嬉しそうな声で囁いた。優しくも凜とした香りを漂わせながら。よく見ると花弁はやや厚みが有り、中央が膨らんでいる。フレア感のあるスカートを身に纏っているみたいだ。大きな葉はマントというより、彼女を囲むステージ。平らな葉には真っ直ぐな太い葉脈が浮き出て、花弁の丸みと直線の対比がなされていて彼女に立体感を与えている。
「ケレルマニイ?」
突然背後から聞こえる声に驚いた。振り向くと児玉君が立っていた。
「ごめん、驚かせて。楓さん、あまりに真剣にデッサンしているから、僕が近付いても全然気付かないし。」
「私、何も気付かなかった。」
「大丈夫、いつもの楓さんだ。ケレルマニイ、聞いたこと無い花だよ。白い花が儚げで綺麗。」
「彼女は、大きな葉をマントだと言うけれど、私は違うものに感じる。それで、デッサンをしながら対話を始めたの。」
「楓さんはどう感じるの?」
「葉は、身に纏うものではなくて、向き合うためのツール。花弁も、一つ一つ、呼吸し、違う形態を持っている。その存在感を、葉が引き立ててくれている。」
私は無心になってパステルを動かす。児玉君は、私より2歳年下でサラリーマンをしている。たまに、仕事の合間に温室に来て休憩をする。最近、短い会話を少しするようになった。とはいえ、私は対人同士の会話が上手く出来ないから、話を中断してデッサンに集中することが多い。そんな私の特徴を児玉君は理解している。やがて、児玉君はiphoneにイヤホンを差し込み、ベンチに座って音楽を聴き始めた。花との対話を続ける私と、音楽を聴きながら肩を揺らす児玉君の間には,雨音だけが響く。
「僕さ、こんな天気の時によく聴く曲があって。」突然、児玉君は静かな声で話し始めた。
「あ、ただの呟きだから、返事しなくていいよ。デッサンを続けていて。」
「……。」
Coccoという沖縄出身のアーティスト。彼女の『raining』という曲なんだ。雨の風景を歌ったものじゃなくて、Coccoの心の涙を例えている。目の前に広がる風景の美しさとは対照に、彼女の孤独や闇が描かれている。とても哀しい曲だけど、僕は好き。特に、雨が降っていると、すごく『raining』が聴きたくなる。」
「…雨。」
「僕の勝手な印象だけど。この曲を聴くと、楓さんを思い浮かべるんだ。感性が強くて、繊細なCoccoと通じる。あ、ごめん。喋りすぎだね。デッサンの邪魔をしてごめんよ。」
「……。」
私は児玉君に対して上手く返答が出来ず、また黙ってケレルマニイと対話を再開した。児玉君はしばらく音楽を聴いた後、立ち上がり、「じゃあ、また。」と軽く手を上げて温室を後にした。
ぼんやりとケレルマニイを見ていると、<どうしたの?>と彼女は心配そうに声をかけてきた。私は深呼吸をして、彼女の細部を集中して捉え、描写する。

その夜、自室の椅子に座り電源が切れたままのパソコンをぼんやりと見つめた。もう、何年も使用していないパソコン。携帯電話を持たない私は、世間から断絶された環境で生活している。どれくらいそんな日々を過ごしているのだろう。会話をする相手は、両親と、主治医と、児玉君だけ。自分を守る為に築いた小さな世界で呼吸をしている。パソコンを開くことすら怖い。だけど、頭のなかでずっと同じキーワードが繰り返される。Cocco、raining。
あと三回深呼吸をしたら、パソコンの電源を付けよう。
1…、2…、3…。
パソコンは重たげな音を唸らせながら起動した。Googleのページを開き、右手の人差し指を慎重に動かして「Cocco raining」とタイプした。検索後、歌詞マップ、You Tubeでの動画が出てくる。You Tubeは公式ビデオクリップと野外ライブでの映像があり、私は野外のものを選びクリックした。
画面に青空が広がる。沢山の観衆に囲まれたステージ。折れそうなくらい痩せた身体のCoccoがマイクを握りしめる。観衆を見渡す目は、微かに震えているけれど視線は真っ直ぐだ。歌詞が字幕で出る。ギターと彼女の声だけが響き、ライブというより神聖な儀式のように思える。Coccoから発せられる歌を、私は想像の世界で構築した。教室、窓からの景色、一人ぼっちの帰り道。
あまりにリアリティを伴う描写が私を混乱させた。映像を消そうと思ったけど手が動かない。皆の笑い声、掌の傷から滲み出る血、窓から差し込む日差しの強さ、廊下の静寂…

「藤原さーん、ここにある石を絵の具で塗っておいてね。じゃあ、よろしく。」
無数の石に囲まれて、私は教室で一人残る。クラスメイト達は談笑しながら教室を出る。
色は、形は、何を選べばいい?学園祭が数日後に迫るなか、石をかき集めてビッグアートを作らなければならない。だけど私は何も指示されず、ひたすら皆の作業を眺めているだけ。石の形に対して塗るべき色はどれ?私が正確な見本を見なければ、何も出来ない事を皆は知っている。これはわざと仕組まれたことだ。私が戸惑う姿は見世物になるから。だけど、全て私が悪い。皆と同じテンポで作業が出来ない。空気を読むことが出来ない。言われたことしか出来ない。質問をすることすら出来ない。
なぜ私はこの世に生まれてきたのだろう。なぜ神様は、こんな不完全な人間を産み落とすのだろう。私がいなければ、お父さんとお母さんはきっと楽だっただろう。きっと普通の子が欲しかっただろう。ごつごつした石を強く握りしめる。しばらく握り続けると、掌に血が滲んできた。さらに強く握りしめると、石は赤く染まり、絵の具で塗ったような姿になった。その掌で何個も石を握りしめる。よく見ると綺麗だ。手の感覚が無くなり、ゆっくり立ち上がる。窓から外を見ると、暗い雲が空を覆い、今にも大粒の雨が落ちそうだ。こんな日に美しい夕焼けを見ずに済んで良かった。雨に濡れて帰れば、顔の涙も掌の血も、雨粒と一緒に流れてくれる。

もう何時間そうしていただろう。rainingを繰り返し聴きながら、机にうずくまっていた。
「ねぇ、あなたも辛かったの?」
Coccoに向かって呟く。言葉を選べずに苦しんだこと、未来なんて要らないと思ったこと。
<生きていける>と歌うあなたは、自分の弱さを乗り越えたかもしれない。だけど、私はどうしたらいいのか、まだ分からない。あの、閉ざされた温室の世界でしか生きていけないのかもしれない。止めどなく涙が溢れた後、雨が去った後のしっとりとした空気に包まれるように、身体に温もりが広がる。悲しさと温かさが重なる涙を初めて流した。ベッドに横たわり、rainingを口ずさみながらいつしか眠りに落ちた。

rainingを何度も聴き、その歌詞を胸の内で反芻しながら植物園内を歩くようになった。日本庭園、万葉の道、お花畑、中国の竹林。この園内は実に多くの植物に溢れていた。どの場所も自然に根付いているような景観を保ち、私はそこを当てもなく彷徨う。温室内とは違い、自然の気候と共に共存する植物たちは言葉数が控え目な様子で佇んでいる。しばらくして、小雨が降ってきた。春先の気候は移ろいやすい。小高い丘の頂上にあるお花畑に東屋が有り、私はそこに腰をかけた。雨に濡れる花に囲まれながら、誰一人いない丘を見渡し、空を見上げる。学校や職場の帰り道、いつも遠い空を見ながら歩いていた。美しい夕焼けを見ると、悲しくなった。現実があまりに辛すぎて、自然の美しい景色を目にしただけで涙が出そうになった。私は今、灰色の空を見上げ、朱色に染まる夕焼けが見たいと願う。そして、雨に濡れる花々とは対話を必要とせず、鑑賞をしていたいという自身の変化に気付いた。

春の柔らかい日差しが温室を照らす昼下がり、植物たちはいつもより大らかに葉を広げているような姿に見えた。私はスケッチブックを片手に、温室内を散策する。しばらくして、児玉君が扉を開けて入ってきて、お互いすぐに目が合った。
「久しぶり。新年度が始まり、バタバタしていてしばらくここに来れなかったんだ。」
「あの…。」
私は、児玉君に伝えたいことがあるのに、上手く言葉を発せられない。児玉君は私の顔を見つめ、次の言葉を待っている。私はスケッチブックをぎゅっと抱き寄せ、呼吸を整える。
「あの、rainingを聴いたの。何回も。涙がでた。沢山昔の風景を思い出し、苦しかった。だけど、もっともっとCoccoの歌を聴きたい。」
私は必死なって言葉を繋げた。児玉君は大きな目を細め、微笑んだ。
「楓さんがrainingを聴いてくれてすごく嬉しい。僕は、楓さんにrainingを聴いて欲しかった。だけど、余計なことかもしれないと思い、こないだは呟くくらいにしか話せなかったんだ。今度、Coccoの曲をCDにコピーして持ってくるね。」
「ありがとう。」
「楓さん、初めて笑った。」
「え…。」
「ほんとだよ。知り合って初めて笑顔の楓さんに会えた。今日はとてもいい日だ。」
「……。」
「あれ、照れてるの?」
私は自分がどんな表情をしているのか分からなかった。そして上手く笑えている自信もなかった。だけど、心から児玉君に「ありがとう」と伝えたい。ひとつの歌の出会いが、私を金縛りにしていた紐をゆっくりと解いていく。その歌を教えてくれた人が目の前にいる。そんな奇跡の連鎖が起きることを初めて知った。まだ、外の世界は怖い。だけど、雨空ではなくて青空のもとを歩く自分を想像したくなった。Coccoが紡ぐ歌を聴きながら、少しずつ自分と向き合うこと出来るかもしれない。そんな気がした。

 

 

Raining 曲/詩 Cocco

ママ譲りの赤毛を2つに束ねて三つ編み揺れてた
なぜだったのだろうと 今も想うけれど
まだわからないよ

静かに席を立って
ハサミを握りしめて
おさげを切り落とした

それはとても晴れた日で
未来なんていらないと想ってた
私は無力で
言葉を選べずに
帰り道のにおいだけ
優しかった
生きていける
そんな気がしていた

教室で誰かが笑ってた
それはとても晴れた日で

髪がなくて今度は
腕を切ってみた
切れるだけ切った
温かさを感じた
血にまみれた腕で
踊っていたんだ

あなたがもういなくて
そこには何もなくて
太陽 眩しかった

それはとても晴れた日で
泣くことさえできなくて あまりにも
大地は果てしなく
全ては美しく
白い服で遠くから
行列に並べずに少し歌ってた

今日みたく雨ならきっと泣けてた

それはとても晴れた日で
未来なんていらないと想ってた
私は無力で
言葉を選べずに
帰り道のにおいだけ
優しかった
生きていける
そんな気がしていた

教室で誰かが笑ってた
それはとても晴れた日で