花柄

 

深夜零時を過ぎた頃、僕はゆっくりとマンションの扉を開け、静かに靴を脱ぐ。忍び足でリビングへ向かい、ソファに視線を向けると寝息をたてる聡さんが横たわっていた。ナイトスタンドの微かな灯りが、聡さんの疲れた寝顔を照らす。聡さんの眠りを遮りたくないけれど、僕は彼の声が聞きたい。僕は聡さんの耳元で囁く。
「ただいま。」
聡さんはうっすらと目を開けて、うーんと言いながら体を伸ばした。そのまま両腕を僕の腰に回し、寝起きのくぐもった声を発しながら起き上る。
「アキラ……おかえり。」
 
 僕は午前中に作ったポトフの鍋に火をかけ、温めている間にバケットを薄切りにする。聡さんの為に買ったシャルドネのボトルの栓を抜き、グラスを軽く合わせた。
週に一度、短い時間だけ許された二人きりの晩餐。僕の手料理をいつも美味しそうに食べる聡さんを見るだけで、お腹が満たされるような感覚になる。
 「今日の料理、この白にすごく合うね。」
 「ポトフに、少し白ワインビネガーを入れたから、調和しているかも。酸味があったほうが、味が締まると思ったんだ。」
 「ほんとに、アキラの味覚は繊細だね。俺のコンディションに合わせて、塩分を控えて、酸味でメリハリを出してる。野菜や肉のダシも美味しいから、すごく進むよ。」
 「僕の得意なことって、料理くらいだから…。」
  聡さんは、いつも僕の料理を褒めてくれる。もともと上手いんじゃない。聡さんが好きそうな料理を、いつも練習しているのだ。

 お互い別々にシャワーを浴びた後は、寝室の僕のベッドで抱き合う。聡さんの肌に触れる度に、深い悦びの波が押し寄せる。
「会いたかった」
型にはめた様な台詞が躊躇いも無く漏れ、何度も交わる。やがて、温かい泥の中に落ちるような睡魔が訪れ、二人で寄りそって眠る時間は、僕の幸福が結晶となるひとときだ。
 
 僕は聡さんの出勤に合わせて、いつもより早く起きて朝食の準備をする。ドリップコーヒーに、温めたクロワッサンとスクランブルエッグを聡さんと食べる。
「アキラはまだ寝ていていいのに。」
「平気。」
聡さんは身支度を整え、丁寧に髪を櫛で溶かした。靴を履き、マンションの扉を開ける前に、軽く僕を抱きしめた。
「じゃあ、またね。」
「いってらっしゃい。」

ドアが閉じた後は、僕は彼の姿を追わない。一人残された部屋で、聡さんの口をつけたマグカップを見ているだけで切なくなるから、僕はベランダに出て、空を眺める。今度は、いつ会えるのだろう…

 

聡さんは僕が勤めるバーの、お客さんの一人だった。バーテンダーの僕とは、世間話程度の会話をする関係だったけれど、次第に内面的な話をするようになった。妻子のいる彼が、「本当の自分」に対し、見て見ぬふりをして生きてきたこと。そして徐々に心が綻び始めたことを僕に打ち明けてくれた。お互いが惹かれあっていることは暗黙だったけれど、僕からその壁を打ち破る勇気が無かった。僕は既に、自身のマイノリティを告白していたから、聡さんがその壁を取り払い、僕を受け入れてくれた時は嬉しくて涙が出た。十日に一度くらいのペースで僕のマンションに来てくれる聡さんには合鍵を渡してある。家族にどんな嘘をついてここに泊まりにくるのかは分からないけれど、この関係を続けてもうすぐ二年だ。僕らは、限られた逢瀬の度に、噛みしめるように求め合った。

 

ベランダからリビングに戻ると、ソファの上に、ブルーのタオルハンカチが置いてあることに気付いた。昨夜、聡さんが寝ていた時に、ズボンのポケットから飛び出したものだろう。手に取ると、柔らかな肌触り、そして、甘い花の、柔軟剤の香りがした。僕はそれをすぐ手から離して、テーブルの隅に置いた。きっと、彼の妻の嗜好でこの香りを選んだのだろう。安っぽい花の香りが僕を不快にする。こんな香り、聡さんには全然似合わない。そこに、聡さんの妻に対する嫉妬が含まれていることは理解しているが、僕は自然の花とは似付かない人工的な香りが嫌なのだ。

 

僕は気持ちを落ち着かす為に、再びドリップコーヒーを淹れた。いつもと同じ淹れ方なのに、何故かとても苦く感じる。目を閉じると、僕の心の奥に潜む、扉の一つが動き出した。自ら封印した出来事のうちの一つが、聡さんのタオルハンカチの香りを嗅いだことで、ゆっくりと開いた。

 

中学に入ってすぐの頃。当時母親が着ていた花柄のスカートが、リビングのソファに無造作に置かれていた。それは、白地に、淡いブルーとピンクのバラがプリントされていた。僕は家に誰もいないことを確認し、そのスカートを手に取ってみた。柔らかく、艶のある素材の手触りが気持ちいい。僕はそのスカートを持って、自室の鏡台の前に立った。なんて素敵なスカートなんだろう。僕は履いていたズボンを脱ぎ、慎重にそのスカートに両脚を入れ、腰の位置まで持ち上げた。目の前には、花柄のスカートの下から、すね毛が生えた無様な脚が映っていた。
僕は一体、何をしているんだろう。
強烈な羞恥が僕を襲い、すぐにスカートを脱いだ。そして、元のソファの上に戻した。こんなことをする自分は気持ちが悪い。誰だってそう思うだろう。可憐な花柄のスカートを身に纏うときの、自分に酔うような感覚が、僕の中に湧き起こったのだ。

 

 ぬるくなったコーヒーを飲みこみながら、僕は過去の記憶の扉を閉めた。僕はゲイだけど、女装趣味は無い。ただ、美しい花や服や、手の込んだ飾り、芳しい香り…そんな一つ一つのモチーフに心惹かれる。自分に似合うリップの色を探す女性も好きだ。自分を美しく見せたいという気持ちは女性特有のものに思われるけれど、僕は自然に備わっていた。好きな人の笑顔が見たいから、料理を試行錯誤しながら作る事も愉しい。

 

僕は狂おしいくらいに聡さんを愛しいるが、彼の環境を壊したくない。ただ、夜の闇が覆う時間じゃなくて、明るい日差しの下で彼と手を繋ぎたい。美しい花が爛々と咲く公園の中で一緒に歩いたり、ウィンドウショッピングが出来たら、どんなに幸せだろう。彼のハンカチもシャツもズボンも、彼に似合う香りの洗剤で洗うことが出来たら…。

 

僕は、さっきまで二人で寝ていたベッドに横たわる。そして、聡さんの枕に深く顔を埋めた。

 

 

 

 

 

 

 

ミルキーウェイ

  「千佳さん、香水つけてる?」

エステの最中、アキラは重たげな瞼をうっすら開けて、呟いた。
「香水じゃなくて、ボディローションをつけてる。まだ、使い始めたばかり。」
 「甘いミルクの香りがして、いつもの千佳さんと違う感じがする。」
毎晩、シャワーを浴びた後に、全身に塗るボディローションは、微かな香りを漂わせるだけで、自分しか分からないと思っていたから、アキラの台詞は意外だった。
再び眠りに落ちるアキラの顔見て、意識をエステに集中させる。首筋からデコルテにかけて、強張ったアキラの凝りを念入りに解す。アキラの肌は見る見るうちにハリと艶を増し、血管の脈の動きが目視出来るくらい、血行が良くなっていく。定期的にエステを受けるアキラの肌は、引き締まっていて、キメが細かい。エステだけじゃない。アキラの身体の中から、温かな幸福感が伝わる。直に肌に触れば分かる。アキラが年上の彼氏から、どれだけ愛されているか。アキラが、大きな掌からどれほど丁寧に愛撫を受けているか。施術をしながらそんな光景を想像している自分に驚いた。今までは、アキラの恋を垣間見るだけで胸が痛くて、目を逸らし続けたのに。

施術が終わり、ハーブティをアキラに差し出す。
アキラはハーブティを口に含みながら、頬を上気させてこちらに顔を向ける。
「今日の千佳さんの掌が、いつもより温かくて心地良かった。熱が、すうっと、皮膚に入る感じ。」
「いつもと変わらないような気がするんだけど。」
「なんだか違うんだよ。あとね、千佳さんの眼差し。千佳さん髪を短くして、ショートボブにしたでしょ。そのせいか、千佳さんの瞳がすごくクリアで綺麗になった気がする。エステ中にちらちらと見ていたんだ。」
 アキラは、屈託も無く、女性が喜ぶような発言を惜しみなく言うのだ。そして、少年のような無邪気な表情で微笑む。こんな仕草が、十歳年上の彼氏を虜にしたのかもしれない。感情表現が真っ直ぐなアキラに対し、私の心も揺れる。彼は何度も鏡を見て、自身のフェイスラインが引き締まったことに満足しながら、サロンを後にした。

 一日の仕事が終わり、ゆっくりとバスタブに浸かる。ふくらはぎの張りを揉みほぐし、シャワーを浴びて浴室を出る。弛緩され、湯気が昇り立つ肌の上に、たっぷりとボディローションを塗る。エステティシャンとして、日々、人の体を触っているが、自分の体に対して目を向けてこなかったことに、ふと気付く。ミルクとバニラを混ぜたような、甘く優しい香りに包まれながら、私は洗面台の前に立つ。そして鏡に映る、裸の自分と向き合った。「女」としての自分を意識しないようにする為に、今まで、敢えて体を見ないようにしてきたかもしれない。四十歳を過ぎても、余分な脂肪が付いていない身体は引き締まっているが、ところどころ乾燥した部分は肌のキメが粗い。ボディローションのボトルには、「Milky Way」と書かれたラベルが貼ってある。アロマショップで、このボトルの蓋を開けて、香りを嗅いだ時、自分の身に付けたいと思った。仕事上、森林の香りがするオイルを使用し、その香りに慣れていたから、不思議な感覚だった。ミルキーウェイ。その響きから、甘いミルクを想像するが、本来は「天の川」という意味だ。小さな星たちが集まり、夜空に道をつくる。星の煌めきが、このボトルに集められ、肌の上で美しさを発するよう、願いが込められたローションなのかな。ロマンティックな発想をする自分に対して恥ずかしくなる。肩までの長さの髪を短くしたことも、甘い香りを身につけたことも、何となく、自分を少しずつ変えてみたくて行動した。アキラと知り合って、もうすぐ三年。彼の孤独を知り、いつしか惹かれた。だけど、彼の真の悦びや輝きは、私の知らない世界へ放たれている。私は行き場の無い想いを抱え、深い森の中で彷徨う日々が続いていた。そして今、森の中を抜け、日差しを求めようとする自分がいた。足元はまだ不安定だけど、少しずつ、歩みを進めている。

 バスタイムの後、甘い香りを漂わせて、ベランダに出ると、夜風が気持ち良い。冷たいペリエが、喉元を心地良く潤す。夜空を見上げると、梅雨の合間だけど雲間から星が瞬いている。もうすぐ七夕が近いことに気付いた。東の方角を見ると、無数の星が連なり、うっすらと、淡い筋になっている。人との出会いも、星と星が偶然に衝突し、形になるものを築くことと同じかもしれない。サロンでアキラと出会ったように、この先も、私は誰かと出会い、光を発することが出来るだろうか。夜風に吹かれながら、私は深く息を吸い込み、年に一度、願いを聞いてくれる天に向かう。子どもの頃以来、考えたことのなかった「願いごと」。
いつか誰かと出会い、甘い香りに包まれながら、一緒に穏やかな眠りにつきたい
私は自身の両腕をしっかりと抱きながら、天の川を見つめた。

 

 

 

日曜日の食卓

手作りのトマトソースをぐつぐつと煮立てている鍋の中へ、表面だけ焼き目を付けた半生のハンバーグを入れる。ハンバーグに混ぜ込んだ玉ねぎのみじん切りは敢えて炒めず、シャキシャキ感を残した。隠し味の砂糖をひとつまみ、そして固形のコンソメスープを入れ、もう数分煮込めば出来上がり。私の母の得意料理を、久しぶりに作りたくなった。実家の家族は、これが大好きだった。

 日曜日は、夫が家にいるから、いつもより早めに夕飯の支度をする。私は、煮込みハンバーグから滲み出るアクを丁寧にすくい取り、仕上げに塩コショウを少し加え、味を整える。リビングに視線を向けると、夫がテレビの論戦番組に、娘の理紗がスマートフォンの画面を見ながら、ソファに横たわっていた。夕飯が出来たことを伝えると、二人は緩慢な動きでダイニングテーブルへ移動する。
「今日は煮込みなんだね。」
夫の声に、やや落胆の響きが含まれる。彼は煮込みより、焼いただけのハンバーグが好きなのだ。理紗は、スマートフォンをテーブルの上に置き、画面をちらちら見ながら黙々とご飯を食べる。今年の春、中学校入学を機に、スマートフォンを買い与えた。すると、理紗は家の中で四六時中その画面を覗きこむようになった。最初のうちは何度も注意したが、一向に言うことを聞かない。次第に、注意することをやめてしまった。画面と食卓の間で目を泳がせる理紗が、ふと箸を止めた。
「ママ、この玉ねぎ、生っぽいんだけど。」
「煮込みの時は炒めないの。お鍋でコトコト煮たほうが、玉ねぎの甘味が出るのよ。」
ふーん、そうなんだ、と理紗は少し首を傾げたが、その後は何も言わず、箸を進めた。夫はハンバーグを半分以上食べた後、席を立って、冷蔵庫からソースを取り出した。そして、残りのハンバーグにぐるっとソースをかける。
「こうすると、ご飯に合うよね。」

 私は幼い頃から母と台所に立つことが好きだった。様々な食材が、母の手によって自由に変化する光景は見飽きることがない。やがて娘が生まれ、いつか親子で料理を作りたい、そんな夢を抱き続けた。だけど、理紗は全く料理に関心を示さない。彼女は夫に似て、ソースやマヨネーズなどの濃くて単調な味ばかりを好む。私が料理にどれだけ工夫を重ねても、ただ黙々を食べるだけで、その表情は乏しい。

 食卓に並んだ料理が綺麗に無くなり、夫と理紗は、再びリビングのソファに戻る。私は席を立ち、まな板の上に半分残った玉ねぎを更に細かくみじん切りにする。これでマリネ液を作ろう。私が初めてみじん切りに挑戦したのは、理紗くらいの齢だった。玉ねぎの縦横に切れ目を入れ、おそるおそる上から下へ刃を降ろす。すると、不揃いながらも小さな四角形の玉ねぎがころころと現れ、驚きと喜びを感じた。うっかりその手で目をこすり、大変な思いをしたっけ。
「…ママ、どうしたの?」
冷蔵庫のジュースを取りに来た理紗が、私の顔を覗きこんだ。私は慌てて頬を濡らす涙をエプロンで拭う。
「みじん切り、やり過ぎちゃった。」
まな板の上には、切り過ぎた玉ねぎが、押し潰されたような状態で広がっていた。