短編作「築地市場」

築地市場

大将がキハダマグロを出刃包丁で豪快に切り開く。マグロの血や小骨が私の顔に飛びかかるけど、もう慣れた。私は大将の隣りで業務用の大きなボウルに入った一升分の米を必死に研ぐ。全身の力をかけながら、わしっわしっとリズムを刻みながら米を押し回す。早朝の5時、競りが終わり、築地市場外に軒を並べる商店を営む人は、観光客が朝食を食べに来るまでの時間、その準備に追われる。ここ「黒潮食堂」も、名物のマグロ丼や海鮮丼の仕込みに息をつく暇が無い。米が研ぎ終わったら、解体されたマグロを水で洗い、粗の部分を細かく切り刻む作業を行う。大将が私の方を向き、真剣な眼差しで包丁を小刻みに叩くジェスチャーをする。大将の指示通り、これでもか、と思うくらいマグロを刻まないと柔らかな舌触りのネギトロにならない。額から流れる汗を首に巻いたタオルでぬぐいながら、夢中になって包丁を叩く。モーニングラッシュまであと2時間。流暢な日本語が聞き取れない私は、大将の表情や視線、体の動きを敏感に捉えて大将の補佐をする。
午前7時を過ぎると、観光客の姿が増える。半数以上が海外からの観光客だ。
早安!味道好的金魚大碗忽公祥?(おはようございます!美味しいマグロ丼はいかがですか?)」
同郷の人間は見てすぐに分かる。私は中国語で彼らに話しかけると、皆足を止めてこちらを見る。互いに言語が通じる安心感か、私の店は中国人が多い。どんぶりの上に大量に盛られたマグロの切り身を見ると、どの客も驚きと歓喜の表情を浮かべ、スマートフォンで何枚も写真を撮る。特に中国では生の魚を食べる習慣が無いから、刺身がふんだんに出てくる築地界隈は、歩いているだけでも刺激的だろう。私はこの街の匂いや風景はとても馴染みがある。私の故郷は上海のはずれの港町で、軒を並べる魚屋や飲み屋の間にはいつも人がごった返しだ。潮の香りと工場の油と魚の臭さ。これが混ざったような空気は、築地にも流れていて、それが私を安心させた。
2年前、初めて東京に来たときは好奇心より不安が大きく、眠れない夜が続いた。母子家庭で4人兄弟の一番上の私は、家を支える為にとにかくお金が必要だった。「日本にある『中国人パブ』で働けば、かなりの高給が手に入る。」この情報を頼りに、ブローカーに就労ビザを手配してもらい日本に来た。子供の頃から日本のアニメが大好きで、ドラゴンボールスラムダンクは漫画を繰り返し読むほどだ。それが興じて、片言の日本語は理解できる。たったそれだけの知識で日本へ渡った私は、大胆不敵というより、ただの世間知らずだった。
薄暗い照明の中で、スリップから露わになった太ももをお客に撫でられながら、上手く笑うことが出来ない。もともと手足が長い私は、ロングドレスを着ると見栄えがいい。片言の日本語しか喋れなくても、男性は嬉しそうに身を寄せ、体を触ってきた。簡単に辞めるわけにはいかない。私は幾つもの仮面を被り、ただ上海に住む家族のことだけを想って生きていた。帰宅して、狭い部屋で一人、涙が溢れてくる。いつまでこんな生活が続くのだろう。

休日の朝、早く目が覚めて何気なく散歩をしたくなった。夜型の生活をしていたせいか、朝の東京の風景は別世界に思える。行き先も考えずにメトロの改札口を通り、一番最初に来た電車に乗る。狭い箱の中に、ぎゅうぎゅうに人が押し詰められ、私は上海のバスのラッシュを思い出した。どこで降りよう?路線図を見ていると、「築地」という文字に目が留まった。その文字の下に(築地市場)と書かれていたからだ。市場。モノと人がひしめき合う場所。故郷と似た空気があるかもしれないと思い、導かれるように電車を降りた。
連なる商店の店先に、新鮮な魚介が並んでいる。豆電球の照明だけの店で、大きな声で客寄せをする店主達の迫力の凄さ。魚介以外に、果物や乾物、刃物、ザル、豆類、あらゆる雑多なものが、所狭しに置かれている。この空気。私は東京に来て初めて緊張の糸が解れたような感覚を味わった。やがて、大きなマグロの頭が店頭に飾られた、一軒の店が目に留まる。初老の男性が一人、真剣な表情で魚を裁いている。店先に、手書きで書かれた一枚の紙が貼ってあった。
『従業員急募。経験不問。外国人可。』

「あの、マグロ丼ください。」
私はその店の小さなテーブル席に座り、店主の様子を見つめた。日焼けした顔には深い皺が刻まれ、瞳はやや灰色がかっている。マグロの切れ身に鋭い刃を入れ、幅の均一な削ぎ切りにしていく。
「はい、お待たせ。」
太い腕を差し出す店主が微笑みながらマグロ丼をテーブルに置く。一口含むと、マグロの脂の甘みと、まろやかさが広がり、顔が綻ぶ。もう一口。熱々のご飯と醤油と、身の締まった赤身を噛みしめると、体中の血が通い、目頭が熱くなった。あまりの美味しさに、放心してしまう。生のマグロと白米。この組み合わせだけでこんなに美味しいなんて。その刺激が私の感情を揺さぶり、不意に涙が流れた。
「お姉さん、そんなに腹ぺこだったのかい?」
店主がニッと笑いながら、お茶を差し出してくれた。
「あの…」私に何かが憑依して、言葉を発したかもしれない。
「私、ここで働きたいです。中国人ですが、日本語、少し喋れます。」

黒潮食堂は、大将と奥さんが二人三脚で35年間店を回してきた。その奥さんが乳がんを患い、やむなく大将が一人で運営する為、従業員を急募していた。言語の壁が気になったが、その心配は必要なかった。食堂の仕事は言葉より動きで覚えることが多い。大将がジェスチャーを交えながら私に指示をする。パブを辞め、早朝の5時に出勤する生活。体を動かす生活は、寂しさや孤独を感じる隙を与えないから、以前より気持ちが落ち着いている。

モーニングラッシュが終わり、店のまかないを食べ、食堂の清掃をする。その後は明日の仕込みを手伝い、私の仕事は午後2時に終わる。空いた時間、築地市場外や築地本願寺を散策することが多い。あてもなくこの街の空気を吸うことが好きだ。午前と午後では築地は全く違う表情になる。午前中の賑やかさは去り、午後は地元の人が買い出しをしたり、商売人は仕込み作業をしたり、早々と店を閉めることもある。私は週に一度、自分へのご褒美で行く店がある。「吉野家」という牛丼屋だ。ここの牛肉とタマネギを甘辛く煮た味は、上海の屋台の揚げパン「油条(ヤウチュウ)」の具材と一緒で、私はこれが大好物だ。「吉野屋」へ行くと、築地で働く人たちが、皆、威勢良く牛丼を頬張り、そんな光景を眺めるのも好きだ。
「美雨(メイウイ)、ご飯少なめ、汁多めで良かったね?」
「はい!」
店員は私の好みを覚えてくれていて、いつしか名前で呼んでくれるようになった。
築地で働くようになってから、一度も泣いていないが無性に故郷に帰りたくなる瞬間がある。だけど、私はこの街で働く。東京という巨大な渦に飲まれる怖さは未だにある。その中で見つけた私の居場所。潮の匂いと喧噪にまみれながら、私は生きていく。

短編作「Roman Holiday」

                               

ローマ行きの特急列車に乗り、車窓から田園風景をあてもなく眺める。僕は、小麦色の肌と引き締まった足首を持つアリーチェの姿を何度も思い浮かべながら、落ち着かない気持ちでスプマンテを口にする。
二週間前、僕が働いている靴工房に一人の女性が訪れた。彼女は工房内のディスプレイや、僕が働く様子をじっと見つめていた。やがて、オーナーにローファーの製作を依頼する。僕は彼女の素足に巻き尺を巻き、採寸を始めた。彼女の足の特徴は、綺麗に引き締まった足首だ。アキレス腱がしっかりと浮き出て、ふくらはぎとのバランスが美しい。
「どこから来たんですか?」僕は彼女に話しかけた。「ローマです。今日はフィレンツェの靴屋街を回りたかったんです。」僕は十八歳で故郷の香港を出てから七年、フィレンツェで靴の勉強に専念するばかりでローマに足を踏み入れた事が無かった。その旨を彼女に伝えると、僕に分かるような丁寧なイタリア語で話し始めた。
「ローマは半月後に行われる『ろうそく祭』に向けて活気づいています。スペイン広場での幻想的な光景を、私は毎年楽しみにしています。」ろうそく祭とは、聖母マリアの昇天を祝う伝統的な祭りらしい。彼女が待ちわびる幻想的な光景は、どれだけ美しいのだろう?ローファーは二週間後に完成するとオーナーが伝えると、彼女は一ヶ月後に工房に再訪すると応えた。「あの、良ければ僕がローマまで届けに行きます。」僕の口からふと言葉が出た。それは予め用意した言葉ではなく、雨が空から落ちるように自然に流れてきた。彼女は驚いて目を見開く。「貴女のお話を聞き、ローマに行きたくなりました。直接お渡しに行けたらと思っています。」彼女の目尻が下がり、次第に笑顔が広がった。彼女は小さなメモ用紙を僕にくれた。そこには「アリーチェ」という名前とメールアドレスが記入されていた。
素性を知らない女性の元へ靴を届けに行くなんて、我ながら大胆だと思う。ローマという街に興味はあるが、それよりも、彼女が住む町で彼女に会いたかった。欲を言えば、二人でろうそく祭を見てみたい。メールでやり取りを始めると、彼女はローマを案内してくれると言ってくれた。僕はすっかり興奮して、二週間落ち着かない気持ちで過ごした。
「ヤン、今日はローマに来てくれてありがとう!」駅の改札口で、満面の笑みで迎えてくれたアリーチェのおかげで、僕の緊張の糸が解れた。ローマの日差しはフィレンツェより強く、地面を這う石畳や、歴史を重ねた建築物に濃い影を落とす。アリーチェの焼けた肌が陽を浴びるとキラキラと光って綺麗だ。「私は調香の勉強をしているの。いつか独自の香りを作り出せる職人になりたい。オーダーメイドの靴が欲しかったのは、私の為に作られた一足の靴が力を与えてくれるんじゃないか、そんな気がしたの。」システィーナ礼拝堂の薄暗い回廊の中で、彼女の声が空間を震わす。「あの工房で、ヤンが真剣な眼差しで靴作りをする姿を見て心を動かされた。黄色の肌の靴職人が、国籍や偏見を乗り越えて、フィレンツェで一流を目指すって、並大抵のことではないわ。」アリーチェの腕とギリギリに触れない距離を保ちながら、僕の心は暮れゆく太陽のように溶け始めていた。片手に持つジュースが無くなっても、落ち着きを保つ為にストローを口に運ぶ仕草を何度も繰り返した。
夕闇が空を覆い始めた頃、僕たちはスペイン広場に辿り着いた。アリーチェが今夜、他の誰かと祭りをみることを想定して、僕は敢えて「ろうそく祭を一緒に見よう」と声をかけなかった。こうして、僕と自然にスペイン広場を訪れた彼女の隣りにいるだけで、鼓動が早まりそうだ。やがて、明かりが灯る燭台を手にした聖歌隊が澄んだソプラノを奏でながら広場を練り歩き始めた。後方にはハンドベルを演奏するシスター達が続く。アリーチェの肩が僕の肩に触れ、ごく自然に寄り添うような姿で僕たちは教会の階段に佇んだ。アリーチェが鞄から小さな巾着を取り出し僕に渡した。中には小さな小瓶が入っていた。「ヤンに渡そうと思ってアロマオイルを調香したの。心身とも安らぎを感じるようなオイルにしたくて。グローブとミントの香りよ。」小瓶の蓋を開けると、爽やかな緑や土の香りに包まれた。吸い込むと、全身が弛緩されるようだ。聖歌隊は手にしているろうそくの灯りを、教会を囲む樫の木に添え付けられたランタンに灯した。広場全体が、揺らめく光に覆われる。「ありがとう。心と体の紐が解れるような、心地良い香りだ。僕の事を想って調香してくれたこと、とても嬉しい。」僕はアリーチェの右手に触れ、指を絡ませた。「君の為の靴をもっと作りたい。型は工房にあるから、僕が作って、君のもとに届けに行ってもいいかい?」アリーチェは眩しいもの見るように僕の目を見つめた。そして、僕の手をぎゅっと握りしめながら頷いた。魔法にかけらえたような時間。アリーチェの体温とアロマの香りが僕を包むと、これが夢か現実か、分からなくなる。夢心地で過ぎる一日をローマで過ごすことがあってもいいだろう。目の前に広がる、光の園と美しい歌声に包まれて、僕らは時間を忘れて寄り添っていた。

短編作「城を築く」

城を築く

新緑が揺れ、心地よい風を運ぶ5月の昼下がり。荘厳な御堂を後ろに将棋盤を叩く音が響き渡る。対戦者の葛城五段は、「動く」ことを柱とした戦術で攻めてくる。僕の一挙手に対し、攻め・守りのあらゆる対策を瞬時に考え、相手に戦法を読み取らせないことを得意とする。ただ、粗も目立つ。サイドから香車で攻める一方、歩兵たちは城を守りきれずに点在している。僕はひたすら、葛城五段の動きを静観するように大人しく駒を進めた。一気に城に攻めたい気持ちを抑えながら、ひたすら待つ。葛城五段の金将が孤立した瞬間、僕は手のひらを返したように攻めに入った。飛車を前衛に、そして銀将と歩兵たちを進め、葛城五段の城を完全包囲した。葛城五段の額に汗が光る。僕は深呼吸をしながら、大胆に攻め続けた。最後の砦が八方塞がりになった直後、菩提寺の庭に佇む鹿威しが終わりを告げるかの如く、慎ましやかに鳴った。
「負けました。」
「ありがとうございます。」
フラッシュが瞬き、僕の周りに観戦記者が囲む。タイトル戦5勝目を獲得したことについて、「良い試合でした。」と、最小限の感想だけ伝え、その場を離れた。

タイトル戦翌日の月曜日。早朝の6時、喫茶「星山珈琲」のフロア掃除から僕の一日が始まる。月曜から土曜の早朝から昼まで、僕はこの喫茶店でアルバイトをしている。プロ棋士になって5年。サラリーマンを辞め、副収入を得るためにここでバイトを始めた。現在はサラリーマン時代より多くの収入を得ている。だけど、僕は自分の生活リズムを整える為にここで働く。勤務後は窓際の一番角の席で、将棋盤を置き、サンドイッチを食べながらひたすら討つ。店長が僕を応援してくれていて、座席を使うことを許してくれた。
「立花君、昨日はおめでとう。終盤の攻撃は見事だったよ。」
「ありがとうございます。長期戦になりましたが、観察力を鍛えるような試合になりました。」
「君の、微動だにしない表情は、相手を混乱させると思うよ。ここで愛想良く働くお兄ちゃんだなんて知ったら、みんな驚くだろうねぇ。」
「僕の精神を高める訓練は、この店で行われています。早朝から働き、昼からは将棋盤に向き合う。静かな空間では無く、ざわついていた方がいいんです。そして、眼前を流れる雄大な長良川の景色。とても贅沢な空間をもらい、僕は幸運です。店長には感謝してもしきれないです。」
「泣けるねぇ。立花君がどんどん強くなって、日本一の将棋士になってもこの店にいて欲しいよ。」
「何年後になるか分からないけど、目指します。それまでこの席があると助かります。」
お互い笑い合った後、僕は外の景色を見る。川の表情を見ていると、絡まった心の糸が解れる。太陽の光を浴びて、川面がキラキラと輝いていたり、雨量が多いと濁流の渦を巻くこともある。そして絶えず動いている。僕は川の流れのように、将棋の駒を打つ手を動かし続けたい。それは、攻める時も守る時も。僕は将棋会館でもらう、「将棋士対戦履歴」を片手に駒を動かす。この紙は、あらゆる対戦の記録が明記されおり、棋士達の討ち方を学ぶ教科書にもなる。陽が沈む頃まで、僕はその席であらゆる攻め方や守り方をシミュレーションする。

毎週日曜日は、午前中から将棋会館へ行く。ここで対局をすることもあれば、練習試合をすることもある。テレビ中継されている対局があれば、皆でそれを観戦することも多い。今日は特に予定は無いから、誰かと練習試合が出来ればと思い、赴いた。応接ホールのソファに座るなり、昔からの将棋仲間の二宮が駆け寄って来た。
「おい立花、あそこに座っている高校生、先月入会したばかりの高校生なんだけど、ちょっと得体が知れないんだ。さっき、野村四段と練習試合したら、四段を負かせてしまった…」
「なんだって!?」
高校生は制服のブレザー姿に、銀縁の眼鏡をかけた大人しそうな青年だった。黙々と教本を読んでいる。
「試合は四段のほうが優勢だったのに、後半の追い込み方が凄い…。」二宮は興奮が冷めやまない様子だ。その時、高校生はふと僕の顔を見た。一瞬目が合ったが、僕はすぐに逸らしてしまった。高校生は僕たちのほうに近寄り、遠慮がちに喋り始めた。
「お話中にすみません。初めまして、夏目薫です。先月、将棋連盟の入会テストに合格したばかりの者です。以前から、立花五段の対局はずっと映像で見てきました。あなたの戦術に惹かれています。厚かましいことを言うのは百も承知ですが、今日、僕と対戦してくれませんか?」
静かだけど、大木の幹のように芯の強い口調だった。眼鏡のレンズから見える眼光の鋭さに、僕は射貫かれるような怖さを感じた。

夏目はとても静かな戦い方をする男だった。討てるチャンスを得ても、駒を進めない。僕もそういう戦い方を得意とするのだが、夏目のそれは、相手を不安にさせる不気味さがある。僕は桂車を進ませながら、じわじわと敵地に踏み込んだ。夏目の角行が進むと、次は香車が前に進み出た。ようやく動いてきたな。僕は自分の城を守りながら、夏目の前衛隊を狩りに行こうとした。その直後だった。夏目は後ろに控えていた飛車を進ませた後、桂車を後進させた。何がしたいんだ?夏目は駒を一進一退させ、僕を迷宮に誘うような討ち方をし始めた。しかしサイドからは香車が直進してくる。やばい。いつの間にか夏目のペースに巻き込まれている。ちらと彼の顔を見る。呼吸さえしていないような静寂な空気が彼を取り囲む。僕の脇に汗が滲む。無名の新人の戦術に混乱するなんて…。僕は深呼吸をして、気を落ち着かせる。まず城を守りながら、夏目の隙を狙う。延々と攻防戦が続き、僕の精神が疲弊してくる。そして、夏目の城壁の一カ所が崩れたのを見定め、一気に攻め込んだ。
「負けました。」
「ありがとうございます。」僕はかすれた声を絞り出した。勝ったものの、ほぼ互角。いや、情勢は夏目が上を行く場面が何度もあった。
「立花さん。今日はお相手して頂き、有り難うございます。とても勉強になりました。」
夏目は丁寧にお辞儀をする。僕は軽く会釈をして、将棋会館を後にした。

岐阜駅からバスに乗り、金華山登山口で降りる。陽が落ちるにはまだ時間がある。僕は緩やかな山道を歩き始めた。この山は、始めは緩やかだが、途中から急に傾斜がきつくなる。一気に緑が深くなり、足下はごつごつした岩が続き、低山だが難所が多い。僕は岐阜で生まれ育ち、金華山は身近な存在だ。そして、将棋の世界に足を踏み入れた時から、たまにこの山に登山をするようになった。心が乱れた時、気持ちを落ち着かせるために山道を歩く。延々と足を進めると無心になれる。登り初めて一時間後、空が拓けてきた。山頂に辿り着くと、雄大な濃尾平野が眼下に広がる。山頂には岐阜城、街の中央を流れる長良川。この広大で自然に富んだ土地を見渡し、織田信長はここで城を築く事を決意したのだろう。戦乱の世をくぐり抜け、勝利の象徴として建立された岐阜城。やがて、家臣である明智光秀に裏切られ、この世を去る…。金華山山頂の空気を吸いながら、激動の人生を生きた織田信長を思い、勝負の世界を顧みる。高校生の新人に負けることが起きてもおかしくないのだ。将棋盤を挟み一対一で向き合えば、あらゆる戦術を駆使して、大物を倒すことも出来る。そんな世界に身を置いているのに、今日僕は明らかに動揺してしまった。僕は山頂からの景色を眺めながら、陽が落ちかける頃までその場に佇んでいた。

帰宅後、僕はインターネットで将棋連盟にアクセスし、夏目薫の対局履歴を全て印刷した。彼の戦法の特徴を掴むことは極めて難しい。対戦相手によって変化させているのか、それとも、敢えて特徴を掴みづらくしているのか…。時間の経過を忘れて、今までの夏目の戦いをシミュレーションするように、将棋盤の駒を動かした。

一週間後の日曜日、将棋会館で夏目を目にした。椅子に座り、ひたすら将棋盤と教本に向き合っていた。僕が近寄ると、はっと顔を上げ、立ち上がる。
「こんにちは。こないだは有り難うございました。」夏目は丁寧にお辞儀をする。
「こちらこそ。良い試合ができて刺激になったよ。実は、夏目君に少し話があるんだ。」
僕は、夏目と共に、将棋研究会を発足したいと打診した。定期的に行い、互いに戦術について鍛錬する機会を設けようと。
「え…。立花さんは僕より数段上を進む人なのに、僕と研究会だなんて。」夏目は驚き、目を伏せてしまった。
「こないだ、君と練習試合をしたとき、僕はたじろいだ。新人なのに、野村四段との戦いを制し、僕とはほぼ互角。試合は僕が勝ったけど、君の戦術が上手の場面は幾つかあった。その後、君の今までの対局履歴を見て、改めて驚いたんだ。君の一貫性の無い戦い方が相手を混乱させる。」
「僕は、自分の個性が見い出せないだけなんです。だから手探りで戦っているようなもので…。」
「相手の城を攻める時は気配を消すくらいがいい。二人で様々な対局を観戦し、互いに棋力を高め合いたい。」
夏目は遠慮がちだったが、次第に将棋への熱い気持ちが高まり、二人で研究会発足することに賛同してくれた。
「立花さんと研究会を立ち上げることが出来るなんて、夢みたいです。将棋の世界に入った時から、立花さんの対局はいつも見ていましたから。」
勝負の世界に、キャリアや肩書きは関係ない。悠々と流れる川のように、動きを止めてはいけないのだ。自分の城を築く為には、新しい視野を取り入れる必要がある。夏目と固い握手を交わした後、早速二人で将棋盤に向かい、対局を始めた。

エッセイ「ピアノコンサート」

Prayer

天から降り注ぐような真っ直ぐな光を浴びて、演奏者は最初の一音を響かせた。
その瞬間、何百人もの聴衆の呼吸は収束し、ステージ上のグランドピアノと、タキシード姿の演奏者を見つめた。
彼が演奏するベートーヴェンピアノソナタは囁き声のような繊細なタッチで奏でられる。それは川の流れのように、繊細さと、突然現れる激流の力強さを生みだし、自然の営みを象徴していた。目を瞑って聴くと、高音のトリルが川のせせらぎで、ベースとなる重低音は川底の生物の呼吸や、周りの樹木のざわめきを表現していた。やがて音の振幅が大きくなり、高音と低音の二重の流れは速度を増した。演奏は川の水が大海原へ放出されたような壮大なクライマックスを迎え、終演した。
ベートーヴェンの、静謐さと激しさを兼ね備えたピアノソナタの余熱が冷めないなか、新たな演目が幕を切った。軽やかなリズムで奏でられるショパンは、気分屋な女の子を描くように、可愛らしく、時に悪戯に鍵盤の上を舞った。やがて主人公の女の子は成長し、恋をする気持ちを表すように、演奏者は切ない音を奏でた。彼女の気持ちのさざ波を、揺れるようなタッチで響かせる。熱い感情をたぎらせるバラードは、低音の規則的なリズムと、高音のドラマチックに流れる音階が成し、体内に呼応するような波を伝える。演奏者はショパンの感情が憑依したかのように、深く目を瞑りながら無心に鍵盤を叩く。音の興奮が頂点に達した時、バラードは熱を帯びながら、風のように去って行った。私の頬は熱く上気し、ショパンの情熱が身体の隅々まで迸った。
休憩中、コンサートホール内のバーカウンターで赤ワインを口に含みながら、体内に余韻を残す音と共にまどろむ。
ベートーヴェンショパン。ピアノを通して伝えられる彼らの楽曲は、自然の風景や人間の感情を落とした、音の宝石箱だ。演奏者は彼らが創造した宝石を磨き、輝きが一層強く放たれるよう、祈りを捧げるように箱の中の世界を構築する。
それは、芸術が再生する奇跡の瞬間であった。
窓に広がる景色を見つめた。見慣れた都心の夜景は、いつもより美しい光を帯びて映る。偉大な作曲家が遺した音の宝石が、輝く奇跡。その瞬間にまた出会えますように…
私はそう祈りながら赤ワインのグラスを片手に、満たされた気持ちで酔いに身を任せた。

短編作「River Side」

River Side

草のすえた臭いが部屋の中を充満していて、僕はふわふわとした気分になる。二日前に買った、しなびたフライドポテトを口の中に入れると塩気が全く感じられなくて、サルサソースを沢山ふりかける。口の中がピリピリして美味しい。テレビの上に置かれた木彫りの人形が小刻みに揺れている。あ、まただ。耳を澄ませると隣の部屋のベッドが軋む音がして、それがママと、ママのお友達が体操か何かをしている音だ。その部屋の扉はロックされていて入ることが出来ない。どんなことをしているか、とても気になるけど、僕は見ないようにしている。それに、この香りが漂うと、いろいろなことがどうでもよくなって、体を動かすより、ソファに横になっていたくなる。そして、テレビでも、ラジオでも、とにかく音が出る機械の音量を最大にして聴くと、最高に気持ちよくなるんだ。僕はソファに寝っ転がってそのまま眠りに落ちる。
目が覚めるともう夜になっていて、隣にママが座って僕の頭を膝の上に乗せてくれていた。
「エンゾ、赤ちゃんのように可愛い寝顔で寝ていたわ。」
「ママ、お友達は帰ったの?」
「うん。」
「ママとお友達はいつもどんなことしているの?」
「お喋りよ。」
ママは本当のことを教えてくれない。だけどいいんだ。ママは最近とても機嫌がいい。以前のように怒ったり、突然泣き出すことが無い。その代わり、毎日仕事に行かなくなった。焦点の合わない目をしてぼーっと椅子に座っていることが多い。ちょっと心配だけど、カリカリしているよりマシだ。

朝起きて学校に向かうけど、途中で寄り道をして、そのまま行かない日が増えてきている。学校なんて本当にくだらない。腕や背中に入れ墨をした奴らが威張っているし、先生だって、見て見ぬふりだ。僕はダウンタウンや川沿いを彷徨う。肉や魚を売る人、派手な格好をして軒先をうろつくお姉さんたち。ママみたいに、とろんとした目をしている大人は結構いる。それを見ると少しだけ安心する。僕はお腹が空くと、いつも行くお店がある。
「ジルおじさん、今日は忙しそうだね。」
「エンゾ、ちょうどよかった。シンクに溜まっている食器を洗ってくれないか?」
ジルおじさんはケバブやタコスを作る店を一人で切り盛りしている。忙しいといつも厨房はぐちゃぐちゃだ。僕はたまに食器洗いや掃除したりして、ジルおじさんのお手伝いをする。ジルおじさんは大きな体を揺らして、ナイフでケバブを削いだり、包丁を小刻みに動かしてキャベツやオリーブを切る。その動きを見ていると、僕の体も反応するように手がせっせと動き、泡まみれになりながら食器の山を片付けていく。
「ありがとう。きりのいいところで休んでな。」ジルおじさんはケバブの切れ端をお皿に盛り、それを僕に差し出す。湯気と肉汁が溢れるケバブを前にするとお腹の虫が鳴いて、僕は夢中になって頬張ってしまう。ジルおじさんは僕が学校をサボっていることや、家でろくな料理が出ず、いつもお腹を空かせていることを知っているけど、余分なことは聞いてこない。いつもニコニコして、僕にケバブやパンを与えてくれる天使みたいな人だ。

ジルおじさんのお店を出た後、街の中心を流れる川のほとりを歩いた。この川はいつも淀んでいて、魚が泳いでいるところを見たことが無い。どこから流れてくるのか、ゴミや木の枝や葉っぱが絡まり、くるくる旋回したまま河口付近に停滞している。どこにも行けない。水の流れが限りなく少ない川を見ていると、僕は悲しい気持ちになる。僕もぷかぷか浮いていて、この木の枝のように、淀んだ川の上を行ったり来たりしているみたいだ。
流れに乗ることも出来ず、大きな海に辿り着くことも出来ない。

カーニバルが週末に迫り、街は熱気を増し、みんながそわそわした雰囲気になっている頃、僕は風邪をこじらせてしまった。ママは僕を見ておろおろしたり抱き締めたりするだけで、病院に連れて行ってくれない。家には薬は無いから、僕はずっとベッドの上で過ごしていた。胃の中が空っぽで気持ちが悪い。呼吸をするとヒューヒューと変な音が胸から口を通して出る。僕はケバブの切れ端を思い浮かべた。ニンニクや塩こしょうがたっぷりのケバブ。ジルおじさんの大きな手で削られ、僕の口に入る瞬間を想像したら体が動き始めた。ママがシャワーを浴びている隙に服を着て家を出る。ダウンタウンへ向かう途中、サンバの練習やファンデーロを演奏する人たちの合間を擦り抜ける際に足下がふらついて何度もぶつかる。やがて僕の大好きな臭いが漂ってきた。
「エンゾ。最近見ないと思っていたら、ガリガリになっちまって。どうしていたんだ。」
「風邪ひいちゃって。もう何日も何も食べていない。」
「そいつはいかん。とにかく食べて。ろくに薬も飲んでいないんだろう。あとで出すから、肉食べた後は奥のソファで横になっていろ。」
空っぽの胃の中に温かいケバブが入ると、体中の血が動いた気がした。今まで何度も食べたケバブの中で、一番美味しい。夢中になって頬張る。お腹が満腹になるとすごく眠くなって僕はいつの間にか眠りについていた。

目が覚めると、ジルおじさんはソファの横にあるダイニングテーブルで、煙草を吸いながらテレビを見ていた。
「よく寝ていたな。具合はどうだ?」
「だいぶよくなったみたい。」
「バスタブにお湯が張っているから、シャワーを浴びておいで。」
寝ている間に沢山の汗をかいていたみたいで、それを流すと気持ちがよかった。熱めのお湯に入り、体をゴシゴシとこする。気付けば、何日もお風呂に入っていなかった。僕はあの家にいると、頭のねじが飛んで、やるべきことが出来ていないことが多い。たっぷりの泡で体中を洗うと、僕は生き返ったように目が覚めた。バスタブを出て脱衣室へ行くと、ジルおじさんがバスタオルを広げて僕の前に立っていた。
「さあ、体を拭いてあげるから。」
僕は裸を見られて恥ずかしかった。だけど隠しようが無い。大きなバスタオルにくるまれるとおじさんは僕の体の隅々を丁寧に拭く。体の水滴が拭き取られると、バスタオルが床に落ちて、おじさんは僕を背後から抱き締める。
「ちょっと。やめて…」
大きな手が僕の股間を撫で回し、僕は金縛りに遭ったみたいに動けなくなってしまった。
「ここにいればいい。もうお腹を空かせることもないから。」
そのまま抱きかかえられて、ソファに寝かされる。僕の恥ずかしいところをおじさんは沢山キスをしてくれる。ものすごくいけないことをしているのに、僕はだんだん気持ちよくなって、どうでもよくなってしまう。あの草のすえた臭いをかいだ時みたいに。
付けっぱなしのテレビが世界中のニュースを流している。この国からちょうど地球の反対側にあるJapaoという国では、宇宙船のように早い「RINIA」という電車を作るらしい。時速600キロとはどれだけ早いのだろう。そんな電車が、いつかこの街を走ればいいな。そしたら僕はこの街を簡単に出ることが出来るのに。淀んだ川に浮いたままでは嫌だ。だけど僕は、操られた人形のようにソファの上に寝かされる。外から聞こえるサンバのリズムが、僕たちの体に響いて心地が良くなる。

短編作「rainning」

raining

雨に濡れる窓を、温室内から眺める。この空間の植物たちは、外の気候に影響されること無く、一定の温度に保たれた空間で生息している。最適の湿度と温度で、思い思いの姿で生きる。葉は艶ややかで濃い緑色、花の中央から伸びる柱頭は真っ直ぐで、先端は果実のように膨らんでいる。雨音を聴きながら、いつもの姿で迎えてくれる植物達に囲まれると私は包み込まれるような安心感を得られる。雨の日の温室は、私が一番好きな場所だ。スケッチブックを抱えたまま、椅子に座る。静かな雨音を聴きながら目を瞑る。しばらくしてゆっくりと目を開け、対話する植物を見つけるために温室内を歩く。「ケレルマニイ」という、中南米に生息する白い花が目に留まった。蓮のような大きな葉に、白い貝殻のような花弁が密集している。一見目立たないが、私はその花に問いかけてみたくなった。
<ねぇ、その小さな体で大きな葉を纏い、重たくないの?>
<大丈夫。この葉は私を守ってくれるマントなの>
私は彼女の声を聴き、その姿を描写したくなった。折りたたみ式の椅子を拡げ、彼女と向き合う。
<綺麗に描いてね>
彼女はちょっと照れながら嬉しそうな声で囁いた。優しくも凜とした香りを漂わせながら。よく見ると花弁はやや厚みが有り、中央が膨らんでいる。フレア感のあるスカートを身に纏っているみたいだ。大きな葉はマントというより、彼女を囲むステージ。平らな葉には真っ直ぐな太い葉脈が浮き出て、花弁の丸みと直線の対比がなされていて彼女に立体感を与えている。
「ケレルマニイ?」
突然背後から聞こえる声に驚いた。振り向くと児玉君が立っていた。
「ごめん、驚かせて。楓さん、あまりに真剣にデッサンしているから、僕が近付いても全然気付かないし。」
「私、何も気付かなかった。」
「大丈夫、いつもの楓さんだ。ケレルマニイ、聞いたこと無い花だよ。白い花が儚げで綺麗。」
「彼女は、大きな葉をマントだと言うけれど、私は違うものに感じる。それで、デッサンをしながら対話を始めたの。」
「楓さんはどう感じるの?」
「葉は、身に纏うものではなくて、向き合うためのツール。花弁も、一つ一つ、呼吸し、違う形態を持っている。その存在感を、葉が引き立ててくれている。」
私は無心になってパステルを動かす。児玉君は、私より2歳年下でサラリーマンをしている。たまに、仕事の合間に温室に来て休憩をする。最近、短い会話を少しするようになった。とはいえ、私は対人同士の会話が上手く出来ないから、話を中断してデッサンに集中することが多い。そんな私の特徴を児玉君は理解している。やがて、児玉君はiphoneにイヤホンを差し込み、ベンチに座って音楽を聴き始めた。花との対話を続ける私と、音楽を聴きながら肩を揺らす児玉君の間には,雨音だけが響く。
「僕さ、こんな天気の時によく聴く曲があって。」突然、児玉君は静かな声で話し始めた。
「あ、ただの呟きだから、返事しなくていいよ。デッサンを続けていて。」
「……。」
Coccoという沖縄出身のアーティスト。彼女の『raining』という曲なんだ。雨の風景を歌ったものじゃなくて、Coccoの心の涙を例えている。目の前に広がる風景の美しさとは対照に、彼女の孤独や闇が描かれている。とても哀しい曲だけど、僕は好き。特に、雨が降っていると、すごく『raining』が聴きたくなる。」
「…雨。」
「僕の勝手な印象だけど。この曲を聴くと、楓さんを思い浮かべるんだ。感性が強くて、繊細なCoccoと通じる。あ、ごめん。喋りすぎだね。デッサンの邪魔をしてごめんよ。」
「……。」
私は児玉君に対して上手く返答が出来ず、また黙ってケレルマニイと対話を再開した。児玉君はしばらく音楽を聴いた後、立ち上がり、「じゃあ、また。」と軽く手を上げて温室を後にした。
ぼんやりとケレルマニイを見ていると、<どうしたの?>と彼女は心配そうに声をかけてきた。私は深呼吸をして、彼女の細部を集中して捉え、描写する。

その夜、自室の椅子に座り電源が切れたままのパソコンをぼんやりと見つめた。もう、何年も使用していないパソコン。携帯電話を持たない私は、世間から断絶された環境で生活している。どれくらいそんな日々を過ごしているのだろう。会話をする相手は、両親と、主治医と、児玉君だけ。自分を守る為に築いた小さな世界で呼吸をしている。パソコンを開くことすら怖い。だけど、頭のなかでずっと同じキーワードが繰り返される。Cocco、raining。
あと三回深呼吸をしたら、パソコンの電源を付けよう。
1…、2…、3…。
パソコンは重たげな音を唸らせながら起動した。Googleのページを開き、右手の人差し指を慎重に動かして「Cocco raining」とタイプした。検索後、歌詞マップ、You Tubeでの動画が出てくる。You Tubeは公式ビデオクリップと野外ライブでの映像があり、私は野外のものを選びクリックした。
画面に青空が広がる。沢山の観衆に囲まれたステージ。折れそうなくらい痩せた身体のCoccoがマイクを握りしめる。観衆を見渡す目は、微かに震えているけれど視線は真っ直ぐだ。歌詞が字幕で出る。ギターと彼女の声だけが響き、ライブというより神聖な儀式のように思える。Coccoから発せられる歌を、私は想像の世界で構築した。教室、窓からの景色、一人ぼっちの帰り道。
あまりにリアリティを伴う描写が私を混乱させた。映像を消そうと思ったけど手が動かない。皆の笑い声、掌の傷から滲み出る血、窓から差し込む日差しの強さ、廊下の静寂…

「藤原さーん、ここにある石を絵の具で塗っておいてね。じゃあ、よろしく。」
無数の石に囲まれて、私は教室で一人残る。クラスメイト達は談笑しながら教室を出る。
色は、形は、何を選べばいい?学園祭が数日後に迫るなか、石をかき集めてビッグアートを作らなければならない。だけど私は何も指示されず、ひたすら皆の作業を眺めているだけ。石の形に対して塗るべき色はどれ?私が正確な見本を見なければ、何も出来ない事を皆は知っている。これはわざと仕組まれたことだ。私が戸惑う姿は見世物になるから。だけど、全て私が悪い。皆と同じテンポで作業が出来ない。空気を読むことが出来ない。言われたことしか出来ない。質問をすることすら出来ない。
なぜ私はこの世に生まれてきたのだろう。なぜ神様は、こんな不完全な人間を産み落とすのだろう。私がいなければ、お父さんとお母さんはきっと楽だっただろう。きっと普通の子が欲しかっただろう。ごつごつした石を強く握りしめる。しばらく握り続けると、掌に血が滲んできた。さらに強く握りしめると、石は赤く染まり、絵の具で塗ったような姿になった。その掌で何個も石を握りしめる。よく見ると綺麗だ。手の感覚が無くなり、ゆっくり立ち上がる。窓から外を見ると、暗い雲が空を覆い、今にも大粒の雨が落ちそうだ。こんな日に美しい夕焼けを見ずに済んで良かった。雨に濡れて帰れば、顔の涙も掌の血も、雨粒と一緒に流れてくれる。

もう何時間そうしていただろう。rainingを繰り返し聴きながら、机にうずくまっていた。
「ねぇ、あなたも辛かったの?」
Coccoに向かって呟く。言葉を選べずに苦しんだこと、未来なんて要らないと思ったこと。
<生きていける>と歌うあなたは、自分の弱さを乗り越えたかもしれない。だけど、私はどうしたらいいのか、まだ分からない。あの、閉ざされた温室の世界でしか生きていけないのかもしれない。止めどなく涙が溢れた後、雨が去った後のしっとりとした空気に包まれるように、身体に温もりが広がる。悲しさと温かさが重なる涙を初めて流した。ベッドに横たわり、rainingを口ずさみながらいつしか眠りに落ちた。

rainingを何度も聴き、その歌詞を胸の内で反芻しながら植物園内を歩くようになった。日本庭園、万葉の道、お花畑、中国の竹林。この園内は実に多くの植物に溢れていた。どの場所も自然に根付いているような景観を保ち、私はそこを当てもなく彷徨う。温室内とは違い、自然の気候と共に共存する植物たちは言葉数が控え目な様子で佇んでいる。しばらくして、小雨が降ってきた。春先の気候は移ろいやすい。小高い丘の頂上にあるお花畑に東屋が有り、私はそこに腰をかけた。雨に濡れる花に囲まれながら、誰一人いない丘を見渡し、空を見上げる。学校や職場の帰り道、いつも遠い空を見ながら歩いていた。美しい夕焼けを見ると、悲しくなった。現実があまりに辛すぎて、自然の美しい景色を目にしただけで涙が出そうになった。私は今、灰色の空を見上げ、朱色に染まる夕焼けが見たいと願う。そして、雨に濡れる花々とは対話を必要とせず、鑑賞をしていたいという自身の変化に気付いた。

春の柔らかい日差しが温室を照らす昼下がり、植物たちはいつもより大らかに葉を広げているような姿に見えた。私はスケッチブックを片手に、温室内を散策する。しばらくして、児玉君が扉を開けて入ってきて、お互いすぐに目が合った。
「久しぶり。新年度が始まり、バタバタしていてしばらくここに来れなかったんだ。」
「あの…。」
私は、児玉君に伝えたいことがあるのに、上手く言葉を発せられない。児玉君は私の顔を見つめ、次の言葉を待っている。私はスケッチブックをぎゅっと抱き寄せ、呼吸を整える。
「あの、rainingを聴いたの。何回も。涙がでた。沢山昔の風景を思い出し、苦しかった。だけど、もっともっとCoccoの歌を聴きたい。」
私は必死なって言葉を繋げた。児玉君は大きな目を細め、微笑んだ。
「楓さんがrainingを聴いてくれてすごく嬉しい。僕は、楓さんにrainingを聴いて欲しかった。だけど、余計なことかもしれないと思い、こないだは呟くくらいにしか話せなかったんだ。今度、Coccoの曲をCDにコピーして持ってくるね。」
「ありがとう。」
「楓さん、初めて笑った。」
「え…。」
「ほんとだよ。知り合って初めて笑顔の楓さんに会えた。今日はとてもいい日だ。」
「……。」
「あれ、照れてるの?」
私は自分がどんな表情をしているのか分からなかった。そして上手く笑えている自信もなかった。だけど、心から児玉君に「ありがとう」と伝えたい。ひとつの歌の出会いが、私を金縛りにしていた紐をゆっくりと解いていく。その歌を教えてくれた人が目の前にいる。そんな奇跡の連鎖が起きることを初めて知った。まだ、外の世界は怖い。だけど、雨空ではなくて青空のもとを歩く自分を想像したくなった。Coccoが紡ぐ歌を聴きながら、少しずつ自分と向き合うこと出来るかもしれない。そんな気がした。

 

 

Raining 曲/詩 Cocco

ママ譲りの赤毛を2つに束ねて三つ編み揺れてた
なぜだったのだろうと 今も想うけれど
まだわからないよ

静かに席を立って
ハサミを握りしめて
おさげを切り落とした

それはとても晴れた日で
未来なんていらないと想ってた
私は無力で
言葉を選べずに
帰り道のにおいだけ
優しかった
生きていける
そんな気がしていた

教室で誰かが笑ってた
それはとても晴れた日で

髪がなくて今度は
腕を切ってみた
切れるだけ切った
温かさを感じた
血にまみれた腕で
踊っていたんだ

あなたがもういなくて
そこには何もなくて
太陽 眩しかった

それはとても晴れた日で
泣くことさえできなくて あまりにも
大地は果てしなく
全ては美しく
白い服で遠くから
行列に並べずに少し歌ってた

今日みたく雨ならきっと泣けてた

それはとても晴れた日で
未来なんていらないと想ってた
私は無力で
言葉を選べずに
帰り道のにおいだけ
優しかった
生きていける
そんな気がしていた

教室で誰かが笑ってた
それはとても晴れた日で

短編作「小休止」

小休止  〈 緑 〉

扉を開けると、甘い花の香りと、湿気を含んだ空気に包まれる。その空気を吸い込むと、僕の体は弛緩され、強張った神経の糸が緩む。植物園内の温室は、緑や樹木が活き活きと、自由な姿で呼吸をしている。天井近くには、ハイビスカスやブーケンビリアが咲き乱れ、地中から僕の背の高さくらいまでは、シダやヘゴの葉が生い茂っている。温室という密閉された空間で、守られた環境で生きる植物たち。自然の猛威に晒されることも無く、思い思いに葉や花を咲かせ、表面には露を乗せてキラキラ光る姿を見せる事もある。亜熱帯気温に包まれた植物達の放つ、怠惰な空気が好きだ。
平日の植物園内の温室はほとんど人気が無い。僕の営業ルートの途中に植物園があり、たまにここに来て仕事をサボる。缶コーヒー片手に、木製のベンチに座りながら、ぼんやりと植物達を眺める。サボテンは化石のように鎮座しているけど、僅かな水分と太陽の光で光合成をしているんだよな。僕の目の前で咲いている「ラッパバナ」。ラッパのような膨らんだ花弁の中央から花粉を付けた柱頭が伸び、花弁の中を覗くと朱色の筋が走っている。なんとなく卑猥だな。アダンの木は無数のトゲを葉に付けていて、互いに絡み合っている。武装をしているみたいだ。一つ一つの植物をよく観察すると、その個性や姿の違いに改めて驚く。一つの小さな種から、こんなにも無数の形状の葉や花が誕生するとは。彼らは、基本的に水と太陽の光だけで成長する。驚異の生命力だ。
僕を取り巻く世界なんて……ちっぽけだ。人間と植物では、当たり前だけど生きる世界が違う。だけどここにいると、僕は肩に荷がおりて、ほっと息がつける。
子どもの時から読書やモノ書きが好きで、ライター職を志望した。新卒で入社した出版社では、主に求人誌に掲載してくれる企業探し、その訪問営業がメインだった。真剣に自分を見つめて就職活動をしなかった僕が悪い。早く内定をもらいたくて、少し妥協して入社した会社では、毎日が営業周り、片手間のように原稿を作成する日々を過ごし、理想とはかけ離れた生活を送っている。まだ二年目。簡単に辞めるわけにはいかない。僕はいつか変われるのかな。いつまでこんな生活が続くのだろう。頭の中で自問しながら、目の前に広がる緑の園をぼんやり眺めていると、いつものようにサラサラと色鉛筆が画用紙の上を滑る音が聞こえてきた。
温室内のヒーターが発する鈍いモーター音と、色鉛筆と画用紙が奏でる三重奏は、静寂な空間の中で立体的に浮かぶ。その音源を捜す。あ、いた。やっぱり今日も来ている。
植物を、熱心にデッサンする女性。彼女はいつも帽子を深く被り、肩までの真っ直ぐな髪が横顔を隠しているから、どんな表情をしているか分からない。きっと、ほぼ毎日ここに来ているのだろう。彼女は小さな折り畳み式の椅子を持参していて、通路の邪魔にならないように、小さく体をすぼめ、スケッチブックと植物の間のみ視線を動かしている。僕は、彼女がどのような絵を描くのがとても興味があった。だけど、話しかける勇気が無い。彼女の周りは、人を寄せ付けないオーラが何重にも囲われているようだ。だけどその日、僕は彼女の声を聞きたかった。緊張するけど好奇心が勝った。僕は彼女の側に歩み寄った。スケッチブックには、色鉛筆やパステルで描かれた草花が、画用紙から飛び出しそうなくらい緻密に描かれている。色の濃淡が、花びらの空気感を醸し出している。
「絵、好きなんですか?」そっと語りかけるように僕は尋ねた。彼女はハッと顔を上げて、僕の顔をちらと見て俯いてしまった。初めて見た彼女の顔は、化粧気が無く、白くて透き通った肌をしていた。年齢は僕と同じくらいだろうか。
「あ、ごめんなさい。気になっただけです。無理に答えなくていいです。」
彼女は僕の目を見て一呼吸おき、小さな声で囁いた。
「植物療法をしています。」僕は次の言葉を待った。
「植物と対話をして、その姿を描写します。対物するものと向き合う練習をしています。」
「そうなんですね。じっくり向き合うと、草花の呼吸が感じられる絵が生まれそうです。」
僕はものすごく見当違いな発言をしているかもしれない。だけど、うまい台詞が見つからない。僕は好奇心だけで彼女に声をかけるべきではなかった。
「緑に囲まれていると、心が落ち着きます。私はここが好きです。」少しだけ、彼女は微笑みながら呟いた。
「僕もここが好きです。」彼女は目を細めて僕を見つめた。そして俯き、スケッチブックを構えて再び植物と対話を始めた。僕は缶コーヒーを飲み干す。舌に残る砂糖の甘さが、なぜかとても美味しく感じる。深呼吸をしてベンチから席を立つ。色鉛筆を動かす彼女を一目見て、温室を出た。好きな場所があることの幸せ。当たり前のことだけど、僕はそれを再認識して温かな気持ちに包まれる。いつか彼女の描いた絵を見せてもらえたらいいな。傾き始めた陽の光を背に、さっきよりも軽やかな足取りで園内を横切る。