心音

新宿の高層ビルを見渡しながら、広い公園をあても無く散策する。新宿という地名がつくのに、ここは都会の喧騒が無く、野鳥の鳴き声や梢の揺れる音が耳に届く。なんだか、透明のフィルターに囲まれたような場所だ。僕は休みの日にここへ訪れることを習慣にしている。周りは百年以上の樹齢を重ねた大木が林立し、僕の頭上に緑の天井を作っている。その隙間から陽が差し込むと、その淡い光は天国から届いたかのように美しい筋となる。

 

直径三メートル以上の太い幹の表面は、岩肌のようにごつごつとしている。それを近くで見ると、新芽が顔を出していたりする。僕はその幹に手を触れる。そして、撫でながらぐるりと幹を一周し、窪みがあるところにもたれた。しばらくして、リュックサックから、聴診器を取り出し、両耳に栓を入れてからシルバーの円盤部分を幹に押しあてた。

「ゴウゴウ」「ザクザク」

様々な濁音が僕の鼓膜を揺らした。 位置をずらし、やや滑らかな樹皮に押しあてると、

「トントントン」

軽快なリズムを刻んでいる。 こうして幹の周りに聴診器をあて、目に入った樹木の鼓動を聴きながら歩く。 木の幹に聴診器をあてると、「根から吸い上げられた水分が、幹内を動く音が聞こえる」とよく言われているが、それは誤った言い伝えだ。もともと、そのような音は発生しない。聴診器を通して聞こえる音は、風が、枝や葉を揺らす音だ。だけど、僕にはこれらの音が、木の鼓動の様に感じる。木によって音は変わるし、同じ木でも箇所によって聞こえる音が変わる。木は、太陽の光と水だけで、生命活動を続けている。その証に、絶えず心臓を動かし続けているのだ。僕はこの音を聴くととても落ち着く。

 

僕の彼女の鼓動も聴いたことがある。日曜日の朝、カーテンから淡い光が漏れる部屋の中で、僕たちは目が覚めた後もベッドの中で抱き合っていた。薄い綿のパジャマ越しに、彼女の鼓動が僕の胸板に伝わる。

「あのさ、あなたの心臓の音を聴診器で聴きたいんだ。」

「どうしたの?」

「なんとなく。駄目かな?」

「変な人。」

彼女は可笑しそうに笑い、パジャマのボタンをはずす。 僕は聴診器を彼女の左胸にそっとあてた。 それは、彼女の静かな呼吸とは裏腹に、力強い音を規則的に奏でていた。 僕はしばらくその音に集中するうちに、深い安堵感に包まれた。

「ねえ、私の心臓ってどんな音?」

「すごく逞しくて、しなやかで、綺麗な音。ずっと聴いていたい。」

「変なお医者さんね。」

僕はそのまま彼女を抱き締めた。

 

一定のリズムを刻む、深い音の世界。なぜ僕は鼓動に惹かれるのだろう。 人間の鼓動も、木の幹の音も、ずっと聴いていると僕は深海を漂うような気分になる。水中では、自分の呼吸音が立体となり、鼓膜を揺らす。辺りは暗く、上を見上げると、日差しが揺らめいている。自分の肉体以外何もない世界は安らかだ。羊水の中を泳ぐ胎児も、こんな風に子宮の中で呼吸をしているのだろうか。

 

東京の中枢を担うこの場所で、ひとり、大木に囲まれる。この街が発展するずっと前から、根を張り、孤高に生き続けてきた樹木たち。そのエネルギーに触れたくて、この場所を訪れる。混線した社会に埋もれ、自分を見失いそうな時に、僕を優しく包んでくれる自然の音階。僕は大木の幹の鼓動を聴いたあとに、自身の胸に聴診器をあて、その心音を確かめる。

ノルウェイの森

その公園の中央に位置する噴水の周囲は、円形の広場になっていて、いくつかのベンチが等間隔に置かれている。夕闇に染まる空の下。僕はベンチに座り、ギターの弦に指を絡める。週に二、三日くらいの頻度で、誰に聴かせるわけでもなく、音を空に放つこの時間が好きだ。僕の前を足早に通り過ぎる人が大半だけど、時には歩を止めて、聴いてくれる人もいる。僕は、噴水の水がサラサラと流れ落ちる音と、ヒマラヤスギの梢が揺れる音に囲まれ、思い思いにギターの音色を響かせる。そうすると、絡まった感情の糸が解れて行くのを感じる。僕はギターを弾きながら、視界の端にいつものシルエットを捉えた。僕の座るベンチの二つ隣り。ゆったりとしたニットのロングワンピースを着て、素足にハイヒールの女性。真っ直ぐな長い髪が横顔を隠し、表情が見えない。身体は細く、片手にいつも缶ビールを持っている。僕がギターを弾き始めると、彼女はどこかからやってきて、ベンチに座る。そして、ビールを飲みながら宙を見つめている。僕は彼女を意識し過ぎぬようにするが、いつもその姿を探してしまう。今日も来てくれた…。僕は、会話もしたことのない女性が、僕のギターを聴いてくれることに喜びを感じつつ、澄ました顔をして弦を震わせる。

空が重い鈍色に覆われる、肌寒い日の夕暮時。僕はビートルズの「ノルウェイの森」を奏でていた。なんとなく、この空の下で弾きたくなった。軽快な前奏を奏でながら、缶ビールの彼女をちらと見ると、彼女は長い髪を耳にかけ、初めて僕の方に視線を向けていた。その顔は青白く、口元はわずかに開いていた。やがて、彼女はリズムに合わせて肩を揺らし始める。缶ビールの彼女が、自発的に動く姿を見て、僕の鼓動が高まった。ギターの演奏に集中しながら耳をすませると、彼女のハミングが聞こえる。よほど「ノルウェイの森」が好きなのだろうか。僕は一層テンポよくメロディーを響かせた。僕は身体を動かしながら、北欧の凛とした寒い空気を想像した。


演奏が終わり、呼吸を整える。指先が、外気の冷たさと、血流の激しさの影響で、痒くなってきた。両掌に息を吹きかけている時、缶ビールの彼女はゆっくりと立ち上がり、僕の傍にやってきた。

「ノルウェイの森、好きなんです。」

彼女は、微笑みながら言った。

「ビートルズはよく聴くの?」

僕は訊ねた。

「ううん。この曲しか聴かない。」

「僕は、小説『ノルウェイの森』を読んでから、この曲を知り、弾くようになったんだ。あなたは、この曲のどこが好きなの?」

「うーん。なんていうか…。聴いているととても落ち着く。深い森の中へ飛んで行ける気がするの。周りは何もない、森林と湖しかない場所へ。」

彼女は、夢想するように呟く。

「へぇ…。そうなんだ。」

僕は彼女の瞳を見つめたけれど、その焦点は泳いでばかりだ。彼女の表情は、口角だけが上がり、感情が読み取れないお面のようだ。

「お酒はいつも飲んでいるの?」

「どうなんだろう。意識はしていないけれど、気がつくと手元にあるかなぁ。」

虚ろな目がいきなり泣きそうな形になり、彼女は綻んだ人形のような表情になった。僕は咄嗟に彼女の手首を掴む。あまりに細い手首は、力を入れると折れてしまいそうだ。ニットのワンピースの袖口をめくると、無数の生々しい傷跡が目に飛び込んできた。

「どうしたの?」

何事も無かったかのように、彼女は微笑む。

「なんだか、あなた、消えてしまいそう。」

「なんで?私はここにいるよ。温かなギターの音色が聴こえると、穴蔵から出てくる熊みたいに、ムクっと起き上がるの。」

そう言いながら、クスクスと笑う。僕は、唐突に目の奥が熱くなり、戸惑った。

「あったかいもの食べよう。」

「えー。もうご飯の時間?」

「あなたの顔を見ていたら、熱々の田楽が食べたくなった。」

「意味わかんない。」

僕は左肩にギター背負い、右手に彼女の手を繋いだ。そして、公園内の出店へ向かう。

「ねぇ。これってナンパ?」

「うん、そうだよ。」

「じゃあ、ご馳走してくれるのね。」

無邪気な声を出す彼女と肩を並べ、白い息を吐きながら、ザクザクと落ち葉を踏み鳴らす。彼女の、氷のように冷たい指先を、僕は包み込むように握る。もし、僕のギターが君の心に響いたのなら。君を深い森から連れ出したいと思った。暗くて寒いノルウェイの森じゃなく、陽が差し込む暖かなところへ。

 

 

 

 

 

 

 

ポリネーター

 自分で動くことの出来ない植物は、子孫を残す戦略として、「花」を利用する。花の色や形や香りが昆虫を誘い、花粉を付けさせ、他の植物へ受粉させるように巧妙に仕向けている。このような昆虫たちはポリネーター(Pollinator)と呼ばれる。送粉者、と訳されるそうだ。この事実を、植物園内の案内所に設置された説明文を読み、知った。自然界に咲く花が、人に癒しを与えるだけでなく、自身の繁殖の為の「手段」であることに驚いた。人間が、異性から関心を惹くために着飾る事と似ている。植物に意思があるという事実に、少し怖さを感じる。彼らに利用される昆虫たちは、ポリネーターという、まるでロボットみたいな名前を付けられて、花の魅惑に右往左往している。植物園内の花たちは、ある程度、人の手を介して育てられ、美しい姿を保っているかもしれない。それでも、植物の一つ一つが、根から栄養を吸い上げ、その体を張り、花を咲かせるというエネルギーは、「繁殖」という願望を背負っているからこそ、生れるのだ。

 広大な植物園内には、様々な庭園やお花畑が広がり、樹木が林立しているが、私は温室が一番好きだ。園内入ると、まず温室を目指す。温室の扉を開けると、湿気を含んだ空気と、いつもと変わらない姿の植物達が出迎えてくれて、ホッと息をつく。亜熱帯の植物達は、大らかに葉を広げ、沢山の酸素を送りだしているようだ。ここにもポリネーターはいるのだろうか。この密閉された空間では、生存競争も戦略も、必要としない場所だと想像してしまう。爛々と咲き乱れるブーゲンビリアや、大きな口を開けて鎮座しているウツボカズラを見ると、私の神経が弛緩されるような感覚が訪れるのだ。

 この世に生を受けた、あらゆる「いきもの」が様々な環境に身を置きながら、その場所に根を張り、自我を主張しながら、命を繋いでいる。ふと、自家発電という言葉が私の頭に浮かんだ。エネルギーを作り出す為には、ずっとずっと走り続けなきゃいけない。せわしなく飛び回るポリネーターだって、花粉を運びながら、花の甘い蜜を吸い、栄養を補給しているのだ。

  私は温室の中の、サボテン室に設置されたベンチに腰を下ろす。天井に届きそうな高さがあるサボテン達を見上げながら、私はぐんと両腕を伸ばした。サボテンは化石のように微動だにせず根を張っているけれど、いきものだ。乾いた空気と僅かな水分と日光だけで、生きている。それでも、自身の繁殖の為に、種を蒔きたいという意思があるのだろうか…。温室の天井は透明のガラスで出来ていて、そこから灰色の空が見えた。大粒の雨が天井を叩いている。秋雨前線の影響で、土はぬかるみ、外はじめじめとした重い空気が漂っている。この楽園に棲む植物達は、雨も雪も台風とも無縁だ。自然界のいきものが、快適な温度と湿度が保たれた場所にずっといることは難しいけれど、たまには自家発電を休む時間が持てればいいのに、と思う。

  私は温室の扉の外に置かれた、幾つかの鉢植えの植物に視線を送る。雨に打たれ、首をかしげた茎や、地面を向いたままの花が視界に入る。雨空の下に放置された植物たちは、太陽の光を浴びて、再び空に向けて顔を上げることが出来るのだろうか。心地よい楽園の空気の中で目を閉じても、萎れた花たちの姿が私の瞼の裏にずっと残った。

 

 

 

もうひとつの抽斗


夏海は、「地球の歩き方」を眺めることが好きだ。図書館で借りた「地球の歩き方」を何冊か机に置き、赴くままにページを捲りながら、あらゆる国の風景を想像することが、夏海にとって心が解放される時間だ。夏海と同じ十四歳の女の子が、中国やインドやオーストラリアでは、どんな時間を、今、過ごしているのだろう。そんな想像をよくする。この日本という国で生まれ育ち、やがて死んでいく。与えられた運命だけれど、「当たり前の世界」だけしか知らずに死んでいくことが、夏海にとって恐怖に思われた。数ヶ月前まで、夏海にとって「死」は漠然とした存在だった。死、それは、自分の存在どころか、「自分」という概念すら消えてしまうことだけど、ピンとこない。しかし、今の夏海は、その概念の実態があやふやになっている。発端は些細なことだった。クラスメートの何人かで組まれているLINEグループの会話の中で、夏海が、一人の生徒のことをかばった。その子は口下手で自己表現が出来ないから、クラスの中でも蚊帳の外に置かれる存在だった。夏海は、その子に対して特別な感情を持っていないが、不当に扱われていることを疑問に思ったのだ。LINEでの夏海の発言から異変が起きた。夏海のメールを皆が既読しても無視するようになった。教室内でも、夏海は透明人間のごとく扱われた。夏海が話しかけても、皆、気まずそうに作り笑いをして、その場を去る。夏海はいじめを受けているわけではない。夏海という存在を無視しているのだ。夏海はうっすらと思う。これが「死」なのかな。もう、死んでもいいってことなのかな。だったら死ぬ前に海外へ行きたい。それから夏海は、行ったことのない国の景色を想像するようになり、そんな理由から「地球の歩き方」を眺めるようになった。

「地球の歩き方」の最初のページに、その国の基本情報が載っている。言語、通貨、宗教、電車の乗り方、街の地図。今までの夏海の常識から、完全に切り離された場所があることが不思議に思えた。夏海にとって、国境を越えた世界は全てが刺激的だった。そして、その場所を想像することが、辛い現実から逃避出来る手段だった。人は八十歳まで生きるとして、夏海が生きてきた時間の五倍以上の年月を過ごすことを簡単に計算する。今まで生きた年数の五倍。考えただけで気が遠くなる。今まで生きてきて、見たこと、感じたことが、もっともっと積み重なる。それらを織り成しながら、ゆっくりと「死」に向かう。もし、自分にそんな生き方ができるのであれば、ひとつひとつの感情の糸を紡いで、一枚の布を仕立てるような日々を過ごすのだろうか。夏海は、心のタンスを想像する。誰しも、心の中にタンスがあって、そこに様々な服が仕舞われている。綿や麻やポリエステル、いつかは絹で出来た服も仕舞えたらいいな。海外へ行けたら、今まで見たことのない素材の糸に出会えるだろうか。それで仕上げた服はどんな肌触りがするのだろう。とっておきの服は丁寧に畳んで、タンスの一番奥の抽斗に保管したい。その抽斗を開けたら、カラフルな色彩が視界に飛び込んでくる。そんな特別な抽斗が欲しい、と夏海は願う。

 夏海は「地球の歩き方 タイ」を読みながら、外から聞こえる鈴虫の鳴き声に気付いた。知らぬ間に、秋の気配が近づいている。リーリーリー。タイでもこの鳴き声は夜に響くのだろうか。夏休み最後の夜。夏海にとって、重い鉛のような塊が圧し掛かる時間だ。勉強机の一番上の薄い抽斗を開けると、ボールペンや消しゴムと一緒にカッターナイフが入っている。夏海はそれを取り出し、慣れた手つきで、太ももの内側にそっと刃をあてる。夏海の身体の目立たない箇所に、無数の傷跡がある。これで死のうとは思わない。滲み出る血と痛みで、「生かされている自分」を認識する。透明人間でも痛みを感じるんだ。学校に自分の居場所なんてない。いつか、地球のさまざまな場所を歩く方法を見つけることができたら。自分の居場所を見つける事が出来たら。沢山の糸を紡いで、綺麗な服を作ろう。そして、抽斗をもうひとつ作ろう。だから、今夜を乗り越えるんだ。夏海はカッターナイフを、勉強机の一番下の抽斗に放り込み、そこに鍵をかけた。

チェリー一夜

 赤、青、黄のスポットライトがステージを照らし、軽快なサウンドと、ボーカルのハスキーボイスが空間に響き渡る。あたしはチーズとクラッカーを頬張りながら、無意識のうちに肩を揺らせていた。セカンドボーカルを担う、若い娘のデュオが履く白いハイヒールと、赤と紺のストライプのワンピースが織りなす色彩が眼前に広がる。あたしはそれを眺めるだけで心地良く酔える。

 1960年代に流行ったアメリカンポップスとド派手な原色にまみれた世界。頭を空っぽにしてリズムに身を任せる時間は、四十年前の六本木まで、あたしを連れてってくれる。奥まった路地にある、細い階段を地下に向けて下り、重厚な木の扉を開けると、そこはアメリカに繋がっていた。バーカウンターで独りで飲む紳士、ダンスフロアで踊る外人達、肩を寄せながらカクテルを飲むカップルが、音の世界に浸っていた。夜が更けると、皆が踊り始め、空間に熱気がこもる。あたしは一回り年上の彼と一緒に、バーボンやスコッチを背伸びして飲んでいたっけ。店中に、アルコールとポップコーンの香りが充満し、皆がアメリカの音楽に夢中になっていた。派手な車も服もピンヒールも、夢の世界だったけれど、あたし達がどんどんそれに近づいているって思っていた。楽しいことが、もっと増える予感が止まなかった。

 バンドのファーストステージが終わり、客席から拍手が鳴る。拍手がまだらに響くのは、店内の半分以上が空席だからだ。乱れたリーゼントを気にしながら、リーダーのヒロシがあたしの席に寄った。
「律子さん、今日もありがと。毎日暑いけど元気?」
「足腰も弱ってるし、この暑さでバテバテよ。ここに来てエネルギーチャージしてるの。」
「毎週水曜日は律子さんが来てくれるから、俺もチャージ出来る。」
「上手いわね。みんなにそう言ってるでしょ?」
二人でいつも軽口を言いながら笑い合う、この時間も好きだ。あたしもヒロシも、中身は何も変わっていないけれど、顔に刻まれる皺は多くなった。あたしはデパ地下の惣菜売り場の仕事を終え、週に一度この店へ行く。デパートから歩いて十分もしないこの場所を、十年前、店の看板が目に留まり見つけた。「Oldies(オールディーズ)」。1950~60年代のアメリカンポップスの意味を持つその単語に引き寄せられた。外からは全く店内の様子が分からず、おそるおそる店の扉を開けたら、若い頃、あたしがこよなく愛した世界が広がっていた。毎日、デパ地下の喧騒の中で仕事をして、クタクタに疲れて帰宅して、独りで晩酌をして一日を終えていた。ずっと独りだから慣れているけれど、たまに現実から離れたくてこの店で飲む。

 バンドのセカンドステージが始まると、ボーカルの娘の一人が、赤いチェックのワンピースに、チェリーの形をしたイヤリングを付けて登場した。イヤリングにスパンコールが装飾されていて、キラキラと光を放つ。それを見ていたら、無性に甘いチェリーを食べたくなった。シロップ漬けされた、真っ赤なチェリーを。
「プリン・ア・ラ・モードちょうだい。」
思わず追加注文した。銀製の皿の上に置かれたプリンは硬めで、プリンの上に、生クリームと赤く着色されたチェリーがあしらわれている。昔の喫茶店にあったプリンだ。チェリーは、プリンの上部を赤く染めている。その実を口に入れて噛むと、強い甘さがぷちんと弾けるように広がった。生クリームとカラメルとチェリーの甘さが口の中で飽和する。あまりに懐かしい味に、切なさを感じた。ずっと変わらない音楽と味があたしを包んでくれた途端、重い腰がふっと浮いた。アバのダンシングクイーンが流れ、あたしはダンスフロアでステップを踏む始めると、六本木の夜が甦った。まだ踊れるんだ。あたしが踊り始めると、遠慮がちに他のお客も席を立った。皆が音に身を任せて、目を閉じながら自由に揺れている。何かの魔法にかけられたみたいだ。あたしは口の中に残るプリンの甘さを感じながら、ステージに立つ娘のイヤリングを目で追いかける。チェリーのキラキラが、ミラーボールに反射して、ステージに華を添える。

花柄

 

深夜零時を過ぎた頃、僕はゆっくりとマンションの扉を開け、静かに靴を脱ぐ。忍び足でリビングへ向かい、ソファに視線を向けると寝息をたてる聡さんが横たわっていた。ナイトスタンドの微かな灯りが、聡さんの疲れた寝顔を照らす。聡さんの眠りを遮りたくないけれど、僕は彼の声が聞きたい。僕は聡さんの耳元で囁く。
「ただいま。」
聡さんはうっすらと目を開けて、うーんと言いながら体を伸ばした。そのまま両腕を僕の腰に回し、寝起きのくぐもった声を発しながら起き上る。
「アキラ……おかえり。」
 
 僕は午前中に作ったポトフの鍋に火をかけ、温めている間にバケットを薄切りにする。聡さんの為に買ったシャルドネのボトルの栓を抜き、グラスを軽く合わせた。
週に一度、短い時間だけ許された二人きりの晩餐。僕の手料理をいつも美味しそうに食べる聡さんを見るだけで、お腹が満たされるような感覚になる。
 「今日の料理、この白にすごく合うね。」
 「ポトフに、少し白ワインビネガーを入れたから、調和しているかも。酸味があったほうが、味が締まると思ったんだ。」
 「ほんとに、アキラの味覚は繊細だね。俺のコンディションに合わせて、塩分を控えて、酸味でメリハリを出してる。野菜や肉のダシも美味しいから、すごく進むよ。」
 「僕の得意なことって、料理くらいだから…。」
  聡さんは、いつも僕の料理を褒めてくれる。もともと上手いんじゃない。聡さんが好きそうな料理を、いつも練習しているのだ。

 お互い別々にシャワーを浴びた後は、寝室の僕のベッドで抱き合う。聡さんの肌に触れる度に、深い悦びの波が押し寄せる。
「会いたかった」
型にはめた様な台詞が躊躇いも無く漏れ、何度も交わる。やがて、温かい泥の中に落ちるような睡魔が訪れ、二人で寄りそって眠る時間は、僕の幸福が結晶となるひとときだ。
 
 僕は聡さんの出勤に合わせて、いつもより早く起きて朝食の準備をする。ドリップコーヒーに、温めたクロワッサンとスクランブルエッグを聡さんと食べる。
「アキラはまだ寝ていていいのに。」
「平気。」
聡さんは身支度を整え、丁寧に髪を櫛で溶かした。靴を履き、マンションの扉を開ける前に、軽く僕を抱きしめた。
「じゃあ、またね。」
「いってらっしゃい。」

ドアが閉じた後は、僕は彼の姿を追わない。一人残された部屋で、聡さんの口をつけたマグカップを見ているだけで切なくなるから、僕はベランダに出て、空を眺める。今度は、いつ会えるのだろう…

 

聡さんは僕が勤めるバーの、お客さんの一人だった。バーテンダーの僕とは、世間話程度の会話をする関係だったけれど、次第に内面的な話をするようになった。妻子のいる彼が、「本当の自分」に対し、見て見ぬふりをして生きてきたこと。そして徐々に心が綻び始めたことを僕に打ち明けてくれた。お互いが惹かれあっていることは暗黙だったけれど、僕からその壁を打ち破る勇気が無かった。僕は既に、自身のマイノリティを告白していたから、聡さんがその壁を取り払い、僕を受け入れてくれた時は嬉しくて涙が出た。十日に一度くらいのペースで僕のマンションに来てくれる聡さんには合鍵を渡してある。家族にどんな嘘をついてここに泊まりにくるのかは分からないけれど、この関係を続けてもうすぐ二年だ。僕らは、限られた逢瀬の度に、噛みしめるように求め合った。

 

ベランダからリビングに戻ると、ソファの上に、ブルーのタオルハンカチが置いてあることに気付いた。昨夜、聡さんが寝ていた時に、ズボンのポケットから飛び出したものだろう。手に取ると、柔らかな肌触り、そして、甘い花の、柔軟剤の香りがした。僕はそれをすぐ手から離して、テーブルの隅に置いた。きっと、彼の妻の嗜好でこの香りを選んだのだろう。安っぽい花の香りが僕を不快にする。こんな香り、聡さんには全然似合わない。そこに、聡さんの妻に対する嫉妬が含まれていることは理解しているが、僕は自然の花とは似付かない人工的な香りが嫌なのだ。

 

僕は気持ちを落ち着かす為に、再びドリップコーヒーを淹れた。いつもと同じ淹れ方なのに、何故かとても苦く感じる。目を閉じると、僕の心の奥に潜む、扉の一つが動き出した。自ら封印した出来事のうちの一つが、聡さんのタオルハンカチの香りを嗅いだことで、ゆっくりと開いた。

 

中学に入ってすぐの頃。当時母親が着ていた花柄のスカートが、リビングのソファに無造作に置かれていた。それは、白地に、淡いブルーとピンクのバラがプリントされていた。僕は家に誰もいないことを確認し、そのスカートを手に取ってみた。柔らかく、艶のある素材の手触りが気持ちいい。僕はそのスカートを持って、自室の鏡台の前に立った。なんて素敵なスカートなんだろう。僕は履いていたズボンを脱ぎ、慎重にそのスカートに両脚を入れ、腰の位置まで持ち上げた。目の前には、花柄のスカートの下から、すね毛が生えた無様な脚が映っていた。
僕は一体、何をしているんだろう。
強烈な羞恥が僕を襲い、すぐにスカートを脱いだ。そして、元のソファの上に戻した。こんなことをする自分は気持ちが悪い。誰だってそう思うだろう。可憐な花柄のスカートを身に纏うときの、自分に酔うような感覚が、僕の中に湧き起こったのだ。

 

 ぬるくなったコーヒーを飲みこみながら、僕は過去の記憶の扉を閉めた。僕はゲイだけど、女装趣味は無い。ただ、美しい花や服や、手の込んだ飾り、芳しい香り…そんな一つ一つのモチーフに心惹かれる。自分に似合うリップの色を探す女性も好きだ。自分を美しく見せたいという気持ちは女性特有のものに思われるけれど、僕は自然に備わっていた。好きな人の笑顔が見たいから、料理を試行錯誤しながら作る事も愉しい。

 

僕は狂おしいくらいに聡さんを愛しいるが、彼の環境を壊したくない。ただ、夜の闇が覆う時間じゃなくて、明るい日差しの下で彼と手を繋ぎたい。美しい花が爛々と咲く公園の中で一緒に歩いたり、ウィンドウショッピングが出来たら、どんなに幸せだろう。彼のハンカチもシャツもズボンも、彼に似合う香りの洗剤で洗うことが出来たら…。

 

僕は、さっきまで二人で寝ていたベッドに横たわる。そして、聡さんの枕に深く顔を埋めた。

 

 

 

 

 

 

 

ミルキーウェイ

  「千佳さん、香水つけてる?」

エステの最中、アキラは重たげな瞼をうっすら開けて、呟いた。
「香水じゃなくて、ボディローションをつけてる。まだ、使い始めたばかり。」
 「甘いミルクの香りがして、いつもの千佳さんと違う感じがする。」
毎晩、シャワーを浴びた後に、全身に塗るボディローションは、微かな香りを漂わせるだけで、自分しか分からないと思っていたから、アキラの台詞は意外だった。
再び眠りに落ちるアキラの顔見て、意識をエステに集中させる。首筋からデコルテにかけて、強張ったアキラの凝りを念入りに解す。アキラの肌は見る見るうちにハリと艶を増し、血管の脈の動きが目視出来るくらい、血行が良くなっていく。定期的にエステを受けるアキラの肌は、引き締まっていて、キメが細かい。エステだけじゃない。アキラの身体の中から、温かな幸福感が伝わる。直に肌に触れば分かる。アキラが年上の彼氏から、どれだけ愛されているか。アキラが、大きな掌からどれほど丁寧に愛撫を受けているか。施術をしながらそんな光景を想像している自分に驚いた。今までは、アキラの恋を垣間見るだけで胸が痛くて、目を逸らし続けたのに。

施術が終わり、ハーブティをアキラに差し出す。
アキラはハーブティを口に含みながら、頬を上気させてこちらに顔を向ける。
「今日の千佳さんの掌が、いつもより温かくて心地良かった。熱が、すうっと、皮膚に入る感じ。」
「いつもと変わらないような気がするんだけど。」
「なんだか違うんだよ。あとね、千佳さんの眼差し。千佳さん髪を短くして、ショートボブにしたでしょ。そのせいか、千佳さんの瞳がすごくクリアで綺麗になった気がする。エステ中にちらちらと見ていたんだ。」
 アキラは、屈託も無く、女性が喜ぶような発言を惜しみなく言うのだ。そして、少年のような無邪気な表情で微笑む。こんな仕草が、十歳年上の彼氏を虜にしたのかもしれない。感情表現が真っ直ぐなアキラに対し、私の心も揺れる。彼は何度も鏡を見て、自身のフェイスラインが引き締まったことに満足しながら、サロンを後にした。

 一日の仕事が終わり、ゆっくりとバスタブに浸かる。ふくらはぎの張りを揉みほぐし、シャワーを浴びて浴室を出る。弛緩され、湯気が昇り立つ肌の上に、たっぷりとボディローションを塗る。エステティシャンとして、日々、人の体を触っているが、自分の体に対して目を向けてこなかったことに、ふと気付く。ミルクとバニラを混ぜたような、甘く優しい香りに包まれながら、私は洗面台の前に立つ。そして鏡に映る、裸の自分と向き合った。「女」としての自分を意識しないようにする為に、今まで、敢えて体を見ないようにしてきたかもしれない。四十歳を過ぎても、余分な脂肪が付いていない身体は引き締まっているが、ところどころ乾燥した部分は肌のキメが粗い。ボディローションのボトルには、「Milky Way」と書かれたラベルが貼ってある。アロマショップで、このボトルの蓋を開けて、香りを嗅いだ時、自分の身に付けたいと思った。仕事上、森林の香りがするオイルを使用し、その香りに慣れていたから、不思議な感覚だった。ミルキーウェイ。その響きから、甘いミルクを想像するが、本来は「天の川」という意味だ。小さな星たちが集まり、夜空に道をつくる。星の煌めきが、このボトルに集められ、肌の上で美しさを発するよう、願いが込められたローションなのかな。ロマンティックな発想をする自分に対して恥ずかしくなる。肩までの長さの髪を短くしたことも、甘い香りを身につけたことも、何となく、自分を少しずつ変えてみたくて行動した。アキラと知り合って、もうすぐ三年。彼の孤独を知り、いつしか惹かれた。だけど、彼の真の悦びや輝きは、私の知らない世界へ放たれている。私は行き場の無い想いを抱え、深い森の中で彷徨う日々が続いていた。そして今、森の中を抜け、日差しを求めようとする自分がいた。足元はまだ不安定だけど、少しずつ、歩みを進めている。

 バスタイムの後、甘い香りを漂わせて、ベランダに出ると、夜風が気持ち良い。冷たいペリエが、喉元を心地良く潤す。夜空を見上げると、梅雨の合間だけど雲間から星が瞬いている。もうすぐ七夕が近いことに気付いた。東の方角を見ると、無数の星が連なり、うっすらと、淡い筋になっている。人との出会いも、星と星が偶然に衝突し、形になるものを築くことと同じかもしれない。サロンでアキラと出会ったように、この先も、私は誰かと出会い、光を発することが出来るだろうか。夜風に吹かれながら、私は深く息を吸い込み、年に一度、願いを聞いてくれる天に向かう。子どもの頃以来、考えたことのなかった「願いごと」。
いつか誰かと出会い、甘い香りに包まれながら、一緒に穏やかな眠りにつきたい
私は自身の両腕をしっかりと抱きながら、天の川を見つめた。