冷たい雨

僕が住む街には、日本でも有数の大きさを誇るモスクが建っている。モスクとは、イスラム教の寺院のことだ。それは白い外観で、礼拝の時間以外は誰でも自由に見学をすることが出来る。建物の中心に礼拝堂があり、そこの円形の天井には青や黄を主体としたタイルが敷き詰められていて、中心には象形文字のような柄が羅列されている。その少し下に、透かし彫りのガラスがはめ込まれていて、淡い光が差し込む。

僕はたまにモスクを訪れ、赤い絨毯が敷かれた礼拝堂の床に座り、ぼんやりと過ごす。

礼拝堂には神様を模したものが祀られていない。静寂が漂う空間があるだけだ。僕は信徒ではないから神様の気配を感じることはないけれど、この空間に身を置くと、気持ちが浄化されていくような気がする。ここは、女性が入場するときは、頭に白い布(ヴェール)を着用する決まりがある。礼拝堂の入り口には、来場者用のヴェールが何枚か置かれていて、それを身に着けた女性の姿を見ると、礼拝堂の神聖さが増すように感じる。


冬の冷たい雨が降り注ぐ昼下がり。礼拝堂の窓際に佇み、物憂げに外を眺める女性に視線がいった。ヴェールから覗く横顔が美しく、僕は遠くから見つめていた。彼女も僕の視線に気付き、お互いに目が合うと何となく気まずくなって視線を逸らした。彼女は窓からの景色をしばらく眺めた後、僕と同じように礼拝堂の片隅で体操座りをして、中央の祭壇を見つめていた。時々、顔を傾けたりするが、体は微動だにしない。冷たい雨が深々と樹木を濡らす音以外、何も聞こえない。僕は、彼女と同じように祭壇をずっと見つめていると、二人だけが呼吸をしている小さな惑星にいるような感覚が芽生えた。ふとした瞬間だった。白いヴェールから一滴の雫が零れ落ちたのを、僕は見逃さなかった。彼女はずっと動かないままだ。しばらくすると、はらはらと雫が落ちてきた。僕は体が固まってしまった。見てはいけないものを見てしまったような気がしたし、大切なもの見つけることができ、それを守りたいような感情も入り乱れた。空気の密度が濃くなっていく。静けさが凝縮され、飽和に達したかのように思えた瞬間、目に見えない何かがプチンと弾けた。僕は立ち上がり、彼女のそばへ歩み寄った。


僕は鞄からハンカチを取り出し、彼女に差し出した。彼女ははっとして僕を見つめ、すぐに目を伏せた。

「よければ使ってください。」

彼女は半分口を開いて、僕を見つめたあと、ゆっくりと瞬きをした。

「ありがとう」

掠れるような声で囁く。

彼女は瞼の下を軽くハンカチで押さえた。しばらくして、大粒の涙が頬をつたい、それをハンカチで拭う。涙は、冬の雨のように、静かに流れてくる。

僕は、彼女の涙の理由を尋ねなかったし、彼女も話したくはないだろう。この場所では、言葉を必要としない。いま、ここで呼吸をしている。それだけでいい。

「あの、ハンカチ、洗ってお返しします。」

彼女は遠慮がちに呟いた。

「またいつか、この場所でお会いした時でいいです。その日まで、持っていてください。」

「…わかりました。」

僕は、彼女の瞳を見つめた。潤んだ瞳はまっすぐに僕を見つめ返す。僕は少し頷いた後、立ち上がった。そして、後ろを振り返らずに出口へ向かった。


彼女と、またここで会えるかどうか分からない。

僕は今日、あの場所で彼女と出会い、同じ時間を共有したことの余韻を残したかった。

もう一度、礼拝堂で会えるのなら。冷たい雨が降り注ぐ日ではなく、柔らかな日差しが窓から差し込む日がいい。願わくは、あの白いヴェールから、微笑みを見ることができたらいい。僕は、傘に落ちる雨音を聞きながら、しっとりと濡れた街路樹の横を通り抜ける。

 

 

 

春の気配

うっすらと靄に包まれた遊歩道を歩く。夜半に降った雨の影響で、朝の新宿御苑の樹木は露に濡れ、強い土の香りが漂う。湿り気を帯びた空気は、草木が芽吹くような春の気配を運んできた。しっとりとした柔らかい土を踏みしめながら、私は杉が立ち並ぶ雑木林へ足を運んだ。真っ直ぐに、空を射抜くように幹を伸ばす杉の木たち。その姿を真下から見上げると、自然と背筋が伸びる。森閑とした杉並木を抜けると、視界が開き、大きな広場へ出る。鈍色の空の下、私はゆったりとした呼吸で芝生の上を歩き、東屋を目指した。


その小さな東屋は日本庭園風の池に面していて、水面には、松の木や灯篭が映っている。私は休日に、自宅から持ってきたお弁当をこの東屋のベンチに広げ、早めのランチをとる事が好きだ。一人でお弁当を食べながらビールを飲んだり、小説を読んだり、悠々と泳ぐ鴨を眺めて過ごす。都会の喧騒が届かないこの公園は、私の心を解放してくれる場所だ。少し湿った木製のベンチに腰をかけ、鞄からお弁当とコンビニで買った缶ビールを取り出した時、視界の端に、小さなブーケを捉えた。私の向かい側のベンチの片隅に、ぽつりと置かれている。装飾のない東屋の中に忽然と現れたブーケは、水彩絵の具のようなふんわりとした色彩を空間に落とす。私は立ち上がり、ブーケの近くへ顔を寄せた。一輪のオレンジ色のガーベラを中心に、白とピンクがグラデーションになった薔薇が数輪、束ねられている。その周りを緑が縁取っている。可愛らしいコーラルピンクの包装紙で包まれた花々は凛としているから、この場所に置かれてそれほど時間は経過していないのだろう。花弁の表面には、まだ水滴が残っていた。遠慮がちにブーケを手に取ると、手元の下の方に、小さなメッセージカードが挿し込まれていた。そこには、丁寧な文字でメッセージが記されている。

「きみとここでランチがしたい」

私はしばらくその文字を見ながら、茫然と佇んでいた。頬が次第に熱くなっていくのが分かる。それが、自分に宛てられたメッセージかどうか定かではない。だけど、私がここに来ることを予期して誰かがこのブーケを置いていった可能性もある。思わず、東屋の周りを見渡したけれど、人の気配はない。知っている相手にブーケをプレゼントするならば、こんな風にベンチの上に置きっぱなしにしないだろう。私の胸の内にくすぐったい気持ちが湧きおこり、小さな東屋の中をぐるぐると歩きまわった。


興奮した気持ちを抑える為に缶ビールを一口飲み、喉を潤す。休日の昼前に、お弁当を食べながらビールを飲み、小説を読む耽る女に、心を寄せる人がいるのだろうか。あれこれ思考しながら、手作りの煮込みハンバーグを頬張る。手作りのソースの味は、まろやかでコクがある。

「美味しい。」

思わず口から零れた。

このハンバーグを、一緒に食べてくれる人がいたらいいのに。口の中に広がる肉汁と、生トマトとケチャップとウスターソースで煮込んだだけのシンプルなトマトソースが絡み合うと、幸せな気持ちになる。


私は、鞄からボールペンを取り出し、ブーケに歩み寄る。そして、メッセージカードの下の方に、言葉を添えた。

「私のお弁当でよければ」

知らない相手にメッセージを送る。私に贈られたブーケじゃないかもしれない。ブーケの贈り主は、かなり変わった人かもしれない。このブーケは、このまま放置され、私のメッセージを目にする人はいないかもしれない。だけど今の私は、この柔らかな空気の中で、お弁当を一緒に食べてくれる人がいたらどれほど楽しいか、想像が膨らんでしまう。この煮込みハンバーグを美味しいと言ってもらえたら、優しい気持ちで満たされるだろう。


ブーケからガーベラを抜き取り、コートの胸元のポケットに差し込んだ。ブーケそのものは、ベンチに置いたままにした。ガーベラの甘い香り包まれながら、東屋を後にする。園内に植えられたソメイヨシノをよく見ると、蕾が少し膨らんでいる。まだ寒いけれど、開花に向けて着実に準備をしているのだ。数メートル先にある梅の木は、ちらほらと花を咲かせている。さっきより軽やかな足取りで園内を横切る私は、春の空気が運んできた魔法にかかったのかもしれない。

心音

新宿の高層ビルを見渡しながら、広い公園をあても無く散策する。新宿という地名がつくのに、ここは都会の喧騒が無く、野鳥の鳴き声や梢の揺れる音が耳に届く。なんだか、透明のフィルターに囲まれたような場所だ。僕は休みの日にここへ訪れることを習慣にしている。周りは百年以上の樹齢を重ねた大木が林立し、僕の頭上に緑の天井を作っている。その隙間から陽が差し込むと、その淡い光は天国から届いたかのように美しい筋となる。

 

直径三メートル以上の太い幹の表面は、岩肌のようにごつごつとしている。それを近くで見ると、新芽が顔を出していたりする。僕はその幹に手を触れる。そして、撫でながらぐるりと幹を一周し、窪みがあるところにもたれた。しばらくして、リュックサックから、聴診器を取り出し、両耳に栓を入れてからシルバーの円盤部分を幹に押しあてた。

「ゴウゴウ」「ザクザク」

様々な濁音が僕の鼓膜を揺らした。 位置をずらし、やや滑らかな樹皮に押しあてると、

「トントントン」

軽快なリズムを刻んでいる。 こうして幹の周りに聴診器をあて、目に入った樹木の鼓動を聴きながら歩く。 木の幹に聴診器をあてると、「根から吸い上げられた水分が、幹内を動く音が聞こえる」とよく言われているが、それは誤った言い伝えだ。もともと、そのような音は発生しない。聴診器を通して聞こえる音は、風が、枝や葉を揺らす音だ。だけど、僕にはこれらの音が、木の鼓動の様に感じる。木によって音は変わるし、同じ木でも箇所によって聞こえる音が変わる。木は、太陽の光と水だけで、生命活動を続けている。その証に、絶えず心臓を動かし続けているのだ。僕はこの音を聴くととても落ち着く。

 

僕の彼女の鼓動も聴いたことがある。日曜日の朝、カーテンから淡い光が漏れる部屋の中で、僕たちは目が覚めた後もベッドの中で抱き合っていた。薄い綿のパジャマ越しに、彼女の鼓動が僕の胸板に伝わる。

「あのさ、あなたの心臓の音を聴診器で聴きたいんだ。」

「どうしたの?」

「なんとなく。駄目かな?」

「変な人。」

彼女は可笑しそうに笑い、パジャマのボタンをはずす。 僕は聴診器を彼女の左胸にそっとあてた。 それは、彼女の静かな呼吸とは裏腹に、力強い音を規則的に奏でていた。 僕はしばらくその音に集中するうちに、深い安堵感に包まれた。

「ねえ、私の心臓ってどんな音?」

「すごく逞しくて、しなやかで、綺麗な音。ずっと聴いていたい。」

「変なお医者さんね。」

僕はそのまま彼女を抱き締めた。

 

一定のリズムを刻む、深い音の世界。なぜ僕は鼓動に惹かれるのだろう。 人間の鼓動も、木の幹の音も、ずっと聴いていると僕は深海を漂うような気分になる。水中では、自分の呼吸音が立体となり、鼓膜を揺らす。辺りは暗く、上を見上げると、日差しが揺らめいている。自分の肉体以外何もない世界は安らかだ。羊水の中を泳ぐ胎児も、こんな風に子宮の中で呼吸をしているのだろうか。

 

東京の中枢を担うこの場所で、ひとり、大木に囲まれる。この街が発展するずっと前から、根を張り、孤高に生き続けてきた樹木たち。そのエネルギーに触れたくて、この場所を訪れる。混線した社会に埋もれ、自分を見失いそうな時に、僕を優しく包んでくれる自然の音階。僕は大木の幹の鼓動を聴いたあとに、自身の胸に聴診器をあて、その心音を確かめる。

ノルウェイの森

その公園の中央に位置する噴水の周囲は、円形の広場になっていて、いくつかのベンチが等間隔に置かれている。夕闇に染まる空の下。僕はベンチに座り、ギターの弦に指を絡める。週に二、三日くらいの頻度で、誰に聴かせるわけでもなく、音を空に放つこの時間が好きだ。僕の前を足早に通り過ぎる人が大半だけど、時には歩を止めて、聴いてくれる人もいる。僕は、噴水の水がサラサラと流れ落ちる音と、ヒマラヤスギの梢が揺れる音に囲まれ、思い思いにギターの音色を響かせる。そうすると、絡まった感情の糸が解れて行くのを感じる。僕はギターを弾きながら、視界の端にいつものシルエットを捉えた。僕の座るベンチの二つ隣り。ゆったりとしたニットのロングワンピースを着て、素足にハイヒールの女性。真っ直ぐな長い髪が横顔を隠し、表情が見えない。身体は細く、片手にいつも缶ビールを持っている。僕がギターを弾き始めると、彼女はどこかからやってきて、ベンチに座る。そして、ビールを飲みながら宙を見つめている。僕は彼女を意識し過ぎぬようにするが、いつもその姿を探してしまう。今日も来てくれた…。僕は、会話もしたことのない女性が、僕のギターを聴いてくれることに喜びを感じつつ、澄ました顔をして弦を震わせる。

空が重い鈍色に覆われる、肌寒い日の夕暮時。僕はビートルズの「ノルウェイの森」を奏でていた。なんとなく、この空の下で弾きたくなった。軽快な前奏を奏でながら、缶ビールの彼女をちらと見ると、彼女は長い髪を耳にかけ、初めて僕の方に視線を向けていた。その顔は青白く、口元はわずかに開いていた。やがて、彼女はリズムに合わせて肩を揺らし始める。缶ビールの彼女が、自発的に動く姿を見て、僕の鼓動が高まった。ギターの演奏に集中しながら耳をすませると、彼女のハミングが聞こえる。よほど「ノルウェイの森」が好きなのだろうか。僕は一層テンポよくメロディーを響かせた。僕は身体を動かしながら、北欧の凛とした寒い空気を想像した。


演奏が終わり、呼吸を整える。指先が、外気の冷たさと、血流の激しさの影響で、痒くなってきた。両掌に息を吹きかけている時、缶ビールの彼女はゆっくりと立ち上がり、僕の傍にやってきた。

「ノルウェイの森、好きなんです。」

彼女は、微笑みながら言った。

「ビートルズはよく聴くの?」

僕は訊ねた。

「ううん。この曲しか聴かない。」

「僕は、小説『ノルウェイの森』を読んでから、この曲を知り、弾くようになったんだ。あなたは、この曲のどこが好きなの?」

「うーん。なんていうか…。聴いているととても落ち着く。深い森の中へ飛んで行ける気がするの。周りは何もない、森林と湖しかない場所へ。」

彼女は、夢想するように呟く。

「へぇ…。そうなんだ。」

僕は彼女の瞳を見つめたけれど、その焦点は泳いでばかりだ。彼女の表情は、口角だけが上がり、感情が読み取れないお面のようだ。

「お酒はいつも飲んでいるの?」

「どうなんだろう。意識はしていないけれど、気がつくと手元にあるかなぁ。」

虚ろな目がいきなり泣きそうな形になり、彼女は綻んだ人形のような表情になった。僕は咄嗟に彼女の手首を掴む。あまりに細い手首は、力を入れると折れてしまいそうだ。ニットのワンピースの袖口をめくると、無数の生々しい傷跡が目に飛び込んできた。

「どうしたの?」

何事も無かったかのように、彼女は微笑む。

「なんだか、あなた、消えてしまいそう。」

「なんで?私はここにいるよ。温かなギターの音色が聴こえると、穴蔵から出てくる熊みたいに、ムクっと起き上がるの。」

そう言いながら、クスクスと笑う。僕は、唐突に目の奥が熱くなり、戸惑った。

「あったかいもの食べよう。」

「えー。もうご飯の時間?」

「あなたの顔を見ていたら、熱々の田楽が食べたくなった。」

「意味わかんない。」

僕は左肩にギター背負い、右手に彼女の手を繋いだ。そして、公園内の出店へ向かう。

「ねぇ。これってナンパ?」

「うん、そうだよ。」

「じゃあ、ご馳走してくれるのね。」

無邪気な声を出す彼女と肩を並べ、白い息を吐きながら、ザクザクと落ち葉を踏み鳴らす。彼女の、氷のように冷たい指先を、僕は包み込むように握る。もし、僕のギターが君の心に響いたのなら。君を深い森から連れ出したいと思った。暗くて寒いノルウェイの森じゃなく、陽が差し込む暖かなところへ。

 

 

 

 

 

 

 

ポリネーター

 自分で動くことの出来ない植物は、子孫を残す戦略として、「花」を利用する。花の色や形や香りが昆虫を誘い、花粉を付けさせ、他の植物へ受粉させるように巧妙に仕向けている。このような昆虫たちはポリネーター(Pollinator)と呼ばれる。送粉者、と訳されるそうだ。この事実を、植物園内の案内所に設置された説明文を読み、知った。自然界に咲く花が、人に癒しを与えるだけでなく、自身の繁殖の為の「手段」であることに驚いた。人間が、異性から関心を惹くために着飾る事と似ている。植物に意思があるという事実に、少し怖さを感じる。彼らに利用される昆虫たちは、ポリネーターという、まるでロボットみたいな名前を付けられて、花の魅惑に右往左往している。植物園内の花たちは、ある程度、人の手を介して育てられ、美しい姿を保っているかもしれない。それでも、植物の一つ一つが、根から栄養を吸い上げ、その体を張り、花を咲かせるというエネルギーは、「繁殖」という願望を背負っているからこそ、生れるのだ。

 広大な植物園内には、様々な庭園やお花畑が広がり、樹木が林立しているが、私は温室が一番好きだ。園内入ると、まず温室を目指す。温室の扉を開けると、湿気を含んだ空気と、いつもと変わらない姿の植物達が出迎えてくれて、ホッと息をつく。亜熱帯の植物達は、大らかに葉を広げ、沢山の酸素を送りだしているようだ。ここにもポリネーターはいるのだろうか。この密閉された空間では、生存競争も戦略も、必要としない場所だと想像してしまう。爛々と咲き乱れるブーゲンビリアや、大きな口を開けて鎮座しているウツボカズラを見ると、私の神経が弛緩されるような感覚が訪れるのだ。

 この世に生を受けた、あらゆる「いきもの」が様々な環境に身を置きながら、その場所に根を張り、自我を主張しながら、命を繋いでいる。ふと、自家発電という言葉が私の頭に浮かんだ。エネルギーを作り出す為には、ずっとずっと走り続けなきゃいけない。せわしなく飛び回るポリネーターだって、花粉を運びながら、花の甘い蜜を吸い、栄養を補給しているのだ。

  私は温室の中の、サボテン室に設置されたベンチに腰を下ろす。天井に届きそうな高さがあるサボテン達を見上げながら、私はぐんと両腕を伸ばした。サボテンは化石のように微動だにせず根を張っているけれど、いきものだ。乾いた空気と僅かな水分と日光だけで、生きている。それでも、自身の繁殖の為に、種を蒔きたいという意思があるのだろうか…。温室の天井は透明のガラスで出来ていて、そこから灰色の空が見えた。大粒の雨が天井を叩いている。秋雨前線の影響で、土はぬかるみ、外はじめじめとした重い空気が漂っている。この楽園に棲む植物達は、雨も雪も台風とも無縁だ。自然界のいきものが、快適な温度と湿度が保たれた場所にずっといることは難しいけれど、たまには自家発電を休む時間が持てればいいのに、と思う。

  私は温室の扉の外に置かれた、幾つかの鉢植えの植物に視線を送る。雨に打たれ、首をかしげた茎や、地面を向いたままの花が視界に入る。雨空の下に放置された植物たちは、太陽の光を浴びて、再び空に向けて顔を上げることが出来るのだろうか。心地よい楽園の空気の中で目を閉じても、萎れた花たちの姿が私の瞼の裏にずっと残った。

 

 

 

もうひとつの抽斗


夏海は、「地球の歩き方」を眺めることが好きだ。図書館で借りた「地球の歩き方」を何冊か机に置き、赴くままにページを捲りながら、あらゆる国の風景を想像することが、夏海にとって心が解放される時間だ。夏海と同じ十四歳の女の子が、中国やインドやオーストラリアでは、どんな時間を、今、過ごしているのだろう。そんな想像をよくする。この日本という国で生まれ育ち、やがて死んでいく。与えられた運命だけれど、「当たり前の世界」だけしか知らずに死んでいくことが、夏海にとって恐怖に思われた。数ヶ月前まで、夏海にとって「死」は漠然とした存在だった。死、それは、自分の存在どころか、「自分」という概念すら消えてしまうことだけど、ピンとこない。しかし、今の夏海は、その概念の実態があやふやになっている。発端は些細なことだった。クラスメートの何人かで組まれているLINEグループの会話の中で、夏海が、一人の生徒のことをかばった。その子は口下手で自己表現が出来ないから、クラスの中でも蚊帳の外に置かれる存在だった。夏海は、その子に対して特別な感情を持っていないが、不当に扱われていることを疑問に思ったのだ。LINEでの夏海の発言から異変が起きた。夏海のメールを皆が既読しても無視するようになった。教室内でも、夏海は透明人間のごとく扱われた。夏海が話しかけても、皆、気まずそうに作り笑いをして、その場を去る。夏海はいじめを受けているわけではない。夏海という存在を無視しているのだ。夏海はうっすらと思う。これが「死」なのかな。もう、死んでもいいってことなのかな。だったら死ぬ前に海外へ行きたい。それから夏海は、行ったことのない国の景色を想像するようになり、そんな理由から「地球の歩き方」を眺めるようになった。

「地球の歩き方」の最初のページに、その国の基本情報が載っている。言語、通貨、宗教、電車の乗り方、街の地図。今までの夏海の常識から、完全に切り離された場所があることが不思議に思えた。夏海にとって、国境を越えた世界は全てが刺激的だった。そして、その場所を想像することが、辛い現実から逃避出来る手段だった。人は八十歳まで生きるとして、夏海が生きてきた時間の五倍以上の年月を過ごすことを簡単に計算する。今まで生きた年数の五倍。考えただけで気が遠くなる。今まで生きてきて、見たこと、感じたことが、もっともっと積み重なる。それらを織り成しながら、ゆっくりと「死」に向かう。もし、自分にそんな生き方ができるのであれば、ひとつひとつの感情の糸を紡いで、一枚の布を仕立てるような日々を過ごすのだろうか。夏海は、心のタンスを想像する。誰しも、心の中にタンスがあって、そこに様々な服が仕舞われている。綿や麻やポリエステル、いつかは絹で出来た服も仕舞えたらいいな。海外へ行けたら、今まで見たことのない素材の糸に出会えるだろうか。それで仕上げた服はどんな肌触りがするのだろう。とっておきの服は丁寧に畳んで、タンスの一番奥の抽斗に保管したい。その抽斗を開けたら、カラフルな色彩が視界に飛び込んでくる。そんな特別な抽斗が欲しい、と夏海は願う。

 夏海は「地球の歩き方 タイ」を読みながら、外から聞こえる鈴虫の鳴き声に気付いた。知らぬ間に、秋の気配が近づいている。リーリーリー。タイでもこの鳴き声は夜に響くのだろうか。夏休み最後の夜。夏海にとって、重い鉛のような塊が圧し掛かる時間だ。勉強机の一番上の薄い抽斗を開けると、ボールペンや消しゴムと一緒にカッターナイフが入っている。夏海はそれを取り出し、慣れた手つきで、太ももの内側にそっと刃をあてる。夏海の身体の目立たない箇所に、無数の傷跡がある。これで死のうとは思わない。滲み出る血と痛みで、「生かされている自分」を認識する。透明人間でも痛みを感じるんだ。学校に自分の居場所なんてない。いつか、地球のさまざまな場所を歩く方法を見つけることができたら。自分の居場所を見つける事が出来たら。沢山の糸を紡いで、綺麗な服を作ろう。そして、抽斗をもうひとつ作ろう。だから、今夜を乗り越えるんだ。夏海はカッターナイフを、勉強机の一番下の抽斗に放り込み、そこに鍵をかけた。

チェリー一夜

 赤、青、黄のスポットライトがステージを照らし、軽快なサウンドと、ボーカルのハスキーボイスが空間に響き渡る。あたしはチーズとクラッカーを頬張りながら、無意識のうちに肩を揺らせていた。セカンドボーカルを担う、若い娘のデュオが履く白いハイヒールと、赤と紺のストライプのワンピースが織りなす色彩が眼前に広がる。あたしはそれを眺めるだけで心地良く酔える。

 1960年代に流行ったアメリカンポップスとド派手な原色にまみれた世界。頭を空っぽにしてリズムに身を任せる時間は、四十年前の六本木まで、あたしを連れてってくれる。奥まった路地にある、細い階段を地下に向けて下り、重厚な木の扉を開けると、そこはアメリカに繋がっていた。バーカウンターで独りで飲む紳士、ダンスフロアで踊る外人達、肩を寄せながらカクテルを飲むカップルが、音の世界に浸っていた。夜が更けると、皆が踊り始め、空間に熱気がこもる。あたしは一回り年上の彼と一緒に、バーボンやスコッチを背伸びして飲んでいたっけ。店中に、アルコールとポップコーンの香りが充満し、皆がアメリカの音楽に夢中になっていた。派手な車も服もピンヒールも、夢の世界だったけれど、あたし達がどんどんそれに近づいているって思っていた。楽しいことが、もっと増える予感が止まなかった。

 バンドのファーストステージが終わり、客席から拍手が鳴る。拍手がまだらに響くのは、店内の半分以上が空席だからだ。乱れたリーゼントを気にしながら、リーダーのヒロシがあたしの席に寄った。
「律子さん、今日もありがと。毎日暑いけど元気?」
「足腰も弱ってるし、この暑さでバテバテよ。ここに来てエネルギーチャージしてるの。」
「毎週水曜日は律子さんが来てくれるから、俺もチャージ出来る。」
「上手いわね。みんなにそう言ってるでしょ?」
二人でいつも軽口を言いながら笑い合う、この時間も好きだ。あたしもヒロシも、中身は何も変わっていないけれど、顔に刻まれる皺は多くなった。あたしはデパ地下の惣菜売り場の仕事を終え、週に一度この店へ行く。デパートから歩いて十分もしないこの場所を、十年前、店の看板が目に留まり見つけた。「Oldies(オールディーズ)」。1950~60年代のアメリカンポップスの意味を持つその単語に引き寄せられた。外からは全く店内の様子が分からず、おそるおそる店の扉を開けたら、若い頃、あたしがこよなく愛した世界が広がっていた。毎日、デパ地下の喧騒の中で仕事をして、クタクタに疲れて帰宅して、独りで晩酌をして一日を終えていた。ずっと独りだから慣れているけれど、たまに現実から離れたくてこの店で飲む。

 バンドのセカンドステージが始まると、ボーカルの娘の一人が、赤いチェックのワンピースに、チェリーの形をしたイヤリングを付けて登場した。イヤリングにスパンコールが装飾されていて、キラキラと光を放つ。それを見ていたら、無性に甘いチェリーを食べたくなった。シロップ漬けされた、真っ赤なチェリーを。
「プリン・ア・ラ・モードちょうだい。」
思わず追加注文した。銀製の皿の上に置かれたプリンは硬めで、プリンの上に、生クリームと赤く着色されたチェリーがあしらわれている。昔の喫茶店にあったプリンだ。チェリーは、プリンの上部を赤く染めている。その実を口に入れて噛むと、強い甘さがぷちんと弾けるように広がった。生クリームとカラメルとチェリーの甘さが口の中で飽和する。あまりに懐かしい味に、切なさを感じた。ずっと変わらない音楽と味があたしを包んでくれた途端、重い腰がふっと浮いた。アバのダンシングクイーンが流れ、あたしはダンスフロアでステップを踏む始めると、六本木の夜が甦った。まだ踊れるんだ。あたしが踊り始めると、遠慮がちに他のお客も席を立った。皆が音に身を任せて、目を閉じながら自由に揺れている。何かの魔法にかけられたみたいだ。あたしは口の中に残るプリンの甘さを感じながら、ステージに立つ娘のイヤリングを目で追いかける。チェリーのキラキラが、ミラーボールに反射して、ステージに華を添える。